《私の死後には、私の誕生以前とは異なり、私についての二人称の死を経験する人々が残されるだろう。つまり私の不在を、別れとして受け止める人々が残されるだろう。奇妙な言い方かもしれないが、このことによって、私は本当に死ぬことができる》
なるほど〜このようなことは初めて考えた。有益。
(3月15日)
初めて強くうなずいたことがもう1つある。睡眠の体験を通して私たちは死をいくらか想像できる、それは皆気づくことだろうが、逆に「人が睡眠という体験をもたなかったら、死ということを想像すらできないのではないか」(主旨)というのだ。なるほど…。
さらに考えを進めてみるーー
想像ではなく死を本当に実感し理解するためには、睡眠に似ているがそれより一歩踏み込んだようななんらか別の特異な体験をする必要があるのかもしれない。私たちは、たまたま睡眠という体験をもった。しかし、たまたまその別のなんらかの特異な体験は欠いていた。
おまけ:意識の正体が本当には実感・理解できないと思えることは、死を実感・理解できないことに通じるのではないか。本当の無(この世界や宇宙といったすべてのものごとが最初からまったく何も存在しないようなこと)がいかなる事態か、それを想像できないのも、同じことに通じるのではないか。
これはおまけではないーー 死や無を本当に実感・理解できる特異な位置に立つ日が、いつか私たちにもやってくるとしたら、それは信仰がもたらすのだろうか? それとも科学がもたらすのだろうか? あるいは、意外や意外、哲学こそがもたらすのだろうか?