東京永久観光

【2019 輪廻転生】

難しい本(量子力学解釈/ドゥルーズ解釈)


*前エントリー(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20150405)から続く


『データの見えざる手』(ASIN:4794220685)は、「人が一定期間に行える体の活動の量には上限があり、それ以上何かするのはまず無理」ということを実証し、大変びっくりしたが、それ以来私は「人が一定期間に行える頭の活動にも上限があり、これ以上何かするのはまず無理」と考えることにした。

つまり「難しい本も1日に読める量には限りがあるよ」と考えることにした。そう考えたときに読んでいた難しい本の1冊は『動きすぎてはいけない』(千葉雅也)で、もう1冊が先に触れた『日経サイエンス』(2013年7月号)の特集「量子の地平線」だった。
asin:4309246354
http://www.nikkei-science.com/201307_034.html

しかし、これらの本が難しいのは、「すでに多数の複雑な知識と議論が配置されてきたところに、新たな主張を通そうとするからこそ」難しいのではないか、とも思った。たとえていえば、多数の複雑な住宅や路地が配置されているところに、新たな道路を通そうとするのが難しいようなもの。

ただし、理系の難しさ(量子力学の解釈)と文系の難しさ(『動きすぎてはいけない』はドゥルーズ解釈の本)では、新たな道路(解釈)の通し方がやや異なり、理系理論は本当にどの住宅とも路地とも衝突しないルートを探すが、文系理論はそれらをむしろなぎ倒すようかのようなルートに感じられる。

というわけで、量子力学の界隈はとても入り組んでいるので、読むのはきわめて面倒だが、我慢して読めば、その入り組んだところを実際に通り抜けた実感がもてるので、すがすがしい。

この点は、前エントリーにあった「言葉は完ぺきに厳密たりうるのか」という問いに重なるが、ドゥルーズの解釈に新しいルートを見出すなどというのは、量子力学の新解釈に比べたら、そもそもものすごく乱暴な行為なのだと、私は感じた。

そう思ったのは、次のブログ(平岡公彦の読書日記)の影響もある。
http://d.hatena.ne.jp/kimihikohiraoka/20140202/p1

この人は複数のエントリーで『動きすぎてはいけない』について書いているが、その読解はいずれも、理系論文の解釈にこそふさわしいような厳密さをもっており、それがきわめて印象的で圧倒された。

《とにかく難解な本だった。(略)断言してもいいが、この本をわかりやすかったとか、一気に読み終えたとかと評している人は、絶対に内容を理解できていない。そもそも、一度読みとおしたくらいで理解できるような論考ではない。私自身、正直言ってよくわからなかった部分がほとんどだ》(同ブログより引用)

いきなりこう感想が述べてあって、まったく同感の者としては、嬉しくなってしまうのだった。言葉は正直が一番だ。

ところで、千葉雅也の同書のタイトルを、私はずっと『働きすぎてはいけない』と思い込んでいて、それは近年の生活事情の反映かもしれないが、それは別の物語、いつかまた。


一方、日経サイエンス「量子の地平線」には何が書いてあったか。

核心の1つは、「量子力学は数学の言葉であっても物理の言葉ではない」という木村元という方の見解にあると思った。

そして、量子力学の方程式(基礎)の謎に、この世で実際に見られる物理的な現象(応用)から迫ろうというのは、迫る方向が反対のようで、実は、永久機関は作れないねという現象(応用)から「エントロピーは増えるしかないね」という熱力学第二法則(基礎)が見出されたのと同じで、有効だと言う。

そして、量子力学は実証に徹して意味は問わないことになっているが、《私自身はこの問い(*量子力学の意味は何か)こそ、世界の仕組みを理解する鍵になると思っている》とまで言う。ただすぐに続けて《が、答えを出すのは時期尚早だと考える。その前に追及すべき問題があるからだ》と結んでいる。

さらに、木村さんが言う「量子力学の謎に迫る物理の現象」の範疇かどうかはわからないが、ともあれきわめて具体的できわめて新しい量子力学の解釈の1つを、同誌は紹介している。それは量子力学をなんとベイズ確率に結びつけたものだった!

どういうことかというと、量子力学が計算してくれるのは、シュレディンガーの猫が生きているか死んでいるかの確率でなはく、「猫が生きているかとか死んでいるかとか君の心が思っている確率にすぎないよ」という解釈のようだった。

このベイズ確率的解釈の是非はさておき、木村さん自身も、確率という目のつけどころには注目しているようだ。

というのも、量子力学が予測する確率は、私たちが現実に使っているすっきりした確率とは、たしかにかけ離れているが、だからといって、「なんでもあり」のかけ離れた確率ではない。量子力学は、現実とはかけ離れた「たった1つの」確率の決まりごとなのだ。なぜその1つなのかが追及のポイントか。


 *


『動きすぎてはいけない』は、結局<序>しか読んでいない。浅田彰東浩紀を参照しており、それを引き継ぐ考察といえるのだろう。「ポストポストモダン」という用語も出てくる。

ひとつだけメモさせてもらう(引用)

《或る時点のTwitterのタイムラインに切りとられた不完全な情報によってふるまいを左右されかねない――掘り下げて調べる気力すらなく――といった痴態。あるいは、SNSのメッセージをひとつ見逃していて――疲労のために――、或る会合への参加を選択できなかったことで、別の行動が可能になること。意志的な選択でもなく、周到な「マス・コントロール」でもなく、私たちの有限性による非意味的切断が、新しい出来事のトリガーになる。ポジティブに言って、私たちは、偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。モダンでハードな主体性からも、ポストモダンでソフトな管理からも逃れる中間地帯、いや、中間痴態を肯定するのである》