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【2019 輪廻転生】

…ってことは、この世がすべて幻だと思えたら、怒りは消えるのか?


我々が笑うとき、それが架空の話でも笑う。漫才とかジョークとか、むしろ空想のバカ話として笑うことが本義かもしれない。ところが、怒りは違うのではないか。自分の日常であれテレビのニュースであれ、ムカっとくるときそこには必ず事実がある。怒りを向ける人物や状況が実在する。

漫才はもともと怒りを誘うものではないが、たとえば小説や映画でどれほど怒るべき出来事が生じても、鑑賞している我々が本気で怒るということは、ないように思うのだ。

夢でシミュレーションするといいかもしれない。

たとえば山崎努が私の上司で私をいびってばかりいる。むかむかする。でもやがて目がさめる。なんだ夢か。そうするともう腹立たしくはない。では、夢で山崎努がバナナの皮ですべってころんだらどうか。大いに笑う。そしてまた目がさめる。でもこんどは思い出しても同じように笑える。すべってころんだのがウルトラマンであってもツチノコであってもだ。実在の世界で実在の人物がすべってころんだのと同じように笑いはとまらない。

これまで、笑いも怒りも似たような生理反応かと思っていたが、そうではないのかもしれない。笑いは無償ですむが、怒りには怒るだけの甲斐が必要であり、怒りの対象が実在しないのでは怒っても仕方ない、ということだろうか。

仮想世界では笑いは生じるが怒りは生じない、ということにもなりそうだ。

怒りは、仮想世界や抽象世界もっというと言語で構成された世界とはあまりなじまないということなのかもしれない。人間は仮想的抽象的に笑うことはできても、仮想的抽象的に怒ることはできないと。

まあそんなわけで、我々は仮の世界でも笑えてしまうのだとしたら、あるいは、我々は仮の世界では怒れないのだとしたら、どっちも不思議で面白い。

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ちなみに悲しみはどうか。怒りより笑いに近いかも。映画や小説の話が悲しくて登場人物と一緒になって泣くことは誰しもあるだろう。さらに喜びはどうか。こっちもやっぱり怒りより笑いに近いと思う。ドラマがハッピーエンドだと本気で喜んでしまう。ドラマがバッドエンドだと、怒りは、バッドエンドをもたらした物語上の人物よりも、そんな物語を作った実在の誰かに向かうこともありえる。

ただし、笑いの場合「ああここは笑ってくださいということだな」というメタレベルの認識によっても、笑ってしまえることがあるが、悲しみや喜びはちょっとそういうふうにはならないようにも思う。

…しかしだんだん分からなくなってきた。また次回。

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…ってことは逆に、この世がすべて幻だと思えても、笑いだけは消えないのか?


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(追記1.18)

きょうブログに何を書こうかというときは、「一般的なことを書くべし」と「特殊なことを書くべし」の2つが拮抗することがある。この日も別のことを書くつもりだったが、ふいに上記のことを思いつき、でもこんなヘンな話うまく伝わるかな、でもやっぱり自分が面白くてぐっと考え込んだことを書いたほうがいいだろうと結論して、書いた。むしろだからこそそれなりに反応をもらえるものなのだろう。ロングテール、嬉しき哉。

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20080114/p1

怒りにはたしかに期待がこもっているのかもしれない。私はむかし、自分は辛い状況に対して、怒ってぶつかるより悲しんでしのぐほうを選ぶ性格だと思ったことがある。それはつまり、他の誰かに働きかけて変わってもらったり分かってもらったりすることを面倒くさがったり諦めたりしているということだろう、みたいなことを考えた。でも本当に現実を生き他人と生きるためには、ときには期待を込めて怒らないといけないのだ、きっと。

逆に、他人にはあまりぶつからないのに対し、社会や政治に私はけっこう漠然と怒りを抱きそのような言及もするように思う。それは変革への期待、というより、じつは、ほんとうは絶望しているかあるいは私に社会性など皆無であるがゆえに、それはさすがにまずいだろうという気持ちから、絶望してしまわない方便として「期待=怒り」をあえて述べようとするのかな、などという、またもや特殊にややこしいことを考えたりもする。

id:tenawanboy(下のコメント欄)

いわゆる「精神が異常にみえる人」は、たしかに現実ではなく空想に怒っているようにみえることがある。でもまあ、上に書いた私の社会的怒り、政治的怒りも、ちょっとそうした仮想的というか仮想敵に怒っているのかもしれない。そして、テロの爆弾だって、実は真に憎むべき個人を探し当てられないがゆえに、仮想の敵に無差別に向かうのかもしれない。

一方、歴史とメディアを通して知っただけの戦争犯罪に私たちが怒るのも、やっぱりどこか仮想的な怒りの面もあるのではないか。だから怒るなといいたいのではなく、むしろそうした意味での仮想的な怒りをまったく欠いてしまうと、人類はなんとなくヤバいのではないかと思う次第。しかしまあ、大昔の戦争をめぐる現在のその怒りが仮想性を持つことをまったく理解できない正義漢もまた、ちょいとヤバいともおもうけれど。