東京永久観光

【2019 輪廻転生】

読書のジレンマ


ものすごく好きな歌があって、でもそれを一度も声にして歌ったことがない、という人もいるだろうか。

でまあ、歌は歌えるからいいが、インストゥルメンタルだと鼻歌にするしかない。もちろん楽器で演じられればいいのだが。

さてでは、お気に入りの歌を歌うように、お気に入りの小説を自分の体に取り込んだり自分の体から送り出したりするには、どうしたらいいのだろう。

読むというのは、そういうことをしているのだろうか。

しかしふつうに読むだけでは足りないと思えるときは多い。

そういうときは、その文章を自分の手で真似て書いてみるがいいのだろうか。好きな歌をそのまま自分の声で歌ってみるように。

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リチャード・パワーズの小説『囚人のジレンマ』(asin:4622072963 )。ずっと先送りしていて今やっと読んでいるのだが、書いてあることがあまりに詳し過ぎ、それくらいのこと(自分で書いてみるくらいのこと)をしないと、この世界にはうまく入っていけないのではないかと思う。

ちょっとした行為や心情のひとつひとつを完璧に描写しようと一心不乱、そこに結びつく知識や思考はもれなく引き出し織り上げたような文章。読者もよほどの集中力で臨まないと、そう易々とは歌声を合わせられない。

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なぞなぞ:日本列島の海岸線をすべて測定すると、どれくらいの距離になると思いますか?

1万km? 10万km? 100万km? 

じつは「無限」というのがひとつの答だ。たとえば伊豆半島をぐるっと車で一周すれば100kmあまりだろう。しかし海岸線はもっと曲がりくねっているので、小さな岬や入り江もすべて回って歩いたら当然もっと長くなる。さらに波打ち際の蟹や貝のごとく、岩や石の一個一個の輪郭まで丁寧に辿ろうとすれば、距離は限りなく延びていく。

囚人のジレンマ』の文章は、そんなキリの無さを想起させるのだ。

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ちなみに「なぞなぞ」とは、この小説を開くとまず掲げられている見出し。そして登場してきた一家の、父は、世界の眺め方のチューニングが一般とは少しずれており、子供たちとの会話や教育というものを、なぞなぞという形式で行うのが常であるようなのだ。

父は僕たちになぞなぞでしか話さない。》(柴田元幸・前山佳朱彦 訳)

2段組で400ページを超えるこの本、まだ50ページほどしか進んでいないせいもあるが、どういう話なのかあまりに見当がつかない。それでも、たとえばそんな父親の奇妙にして希有な性質が示されたりするので、大いに首をかしげながらもページをめくるのを止める気にはならない。

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そうこうしているうちに、この不透明さを一挙に晴らしてくれるのではというキーワードがひとつ、他でもない文中から転がり出てくる。そんなときは俄然おもしろい。

まるごと詰め込む

その時点での僕たちのすべてがカプセルに入る。カメラ、壁付スイッチ、安全ピン。三メートルの流線型ミサイルに、一九三九年当時の僕らアメリカ人の暮らしをまるごと詰め込むのだ。簡単な仕事じゃない。ガラス、ステンレス鋼、一ドル銀貨、歯ブラシ。歯ブラシを入れたところが見事だ。あまりにありふれているせいで、いかにも見逃されてしまいそうな品。もし未来人が僕たちのほかすべてを知ったとしても、そこに歯ブラシがなければ僕らは失われたままだ。

これは、1939年ニューヨーク万博で企画されたというタイムカプセルについての考察だ。しかも、この企画に絡んである架空の一家が当時のアメリカ人モデルとして設定されているといい、面白いことに、そのミドルトン家の一員たる13歳の少年こそが、この考察をしているのである。う〜む、私が描写するとますますややこしくなる。

なお、タイムカプセルには当時のニュース映像も数多く盛り込まれる。同時にまた、その架空の一家は1939年のニュースを進行形で聞いてもいる。

一九三九年九月一日、ミセス・ミドルトンとおばあちゃんは、同日早朝に開始されたヒトラーポーランド爆撃の詳細な報告をアナウンサーがこう締めくくるのを聞く。「ここであらためてスポンサーのご厚意に感謝いたします……連続ドラマ『人生は美しく』は、アイボリーソープでおなじみのP&Gの提供でお送りいたしております」。

ポーランド爆撃とP&Gがこのように結びつくから、まったくこの小説は少しでも飛ばして読んだりはできないのだ。

さらに、もっとややこしいことを、私が言うのではなく、作者が言う。

とりわけ、自己言及的な最後の一片に彼は賛同する。すなわち、カプセルに収められたニュース映画のひとつは、そのミニチュアのカプセル世界、つまり万博そのものを報道しているのだ。

いかがだろう。作者がまるごと詰め込もうとしているのは、実にこのひとつの小説自体についてなのかもしれず、そのようにしてまるごと詰め込もうとすることのすべてがそのままこの小説になっていくのである。……とか言いたくもなるが、結局やっぱり何の話なのかますます分からないのであった。

それなのに、この小説に書かれたことのすべてがこれほど気になって仕方ないのは、いったい何故なんだろう。

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赤瀬川原平が昔なにかの本で書いていた。ある夢をみて目が覚めた。でもそれがどんな夢だったか、今にも思い出せそうで思い出せない。そのもどかしさを例え、ある尻尾の先だけが目の前にあるのに、どんな動物かはどうしても見えない、というようなことを言う。そしてその次にまた夢をみた。またもやうまく思い出せない。しかし今度の思い出せなさは前のとは質が違う。今度は、目の前に窓があり、その窓全体をある大きな動物の胴体のような部分が覆っていて、その覆っている部分だけはよく見えるのだが、動物全体の姿はやっぱりどうしても見えなくて分からない。

囚人のジレンマ』も今はまだそんなかんじだ。尻尾がつかめないというよりも、皮膚のテクスチャーだけはたしかに鮮やかに見えている。でも全体としてどんな動物なのかが、いやこれが動物なのかどうかも、よく分からない。いつかこの夢をすっかり語れるといいのだが。気持ちよく口ずさめるといいのだが。

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それにしても近ごろ、読書はちっとも進まない。理由のひとつは明白で、読む時間を取らないせいだ。本を読むといえば寝る前か、電車移動の時かそれくらい。しかも寝床に入るとすぐ眠ってしまい、大げさでなく1ページもいかないのだから仕方ない。出不精なので電車で読むことも実際には少ない。だったら机に座って本を読めばいいのに。それが机に座るとインタ−ネットばかりなのである。不思議なのは、インターネットをしていると全然眠くならないのに、本を読んでいるとなんでこんなにすぐ眠くなってしまうのだろう、ということだ。