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【2019 輪廻転生】

★所有と国家のゆくえ

稲葉振一郎立岩真也『所有と国家のゆくえ』asin:414091064X

稲葉氏は、この対談で、自分が教わろうと思っていたことと、自分が教えようと思っていたことの、割合はどれくらいだったのだろう。半分半分? でも結果としては、どうも8割がた教えることになってしまったなと、感じているのではないか。

私はというと、「なるほど〜」「そうか〜」と知識が広まり深まったのは、100パーセント稲葉氏のレクチャーからだった。

なぜか。

じつをいうと、私が心のなかで思っていても世間の風向きを考えればいくらなんでもまともには口にできない類の、きわめて愚直な思いつきのまるで100パーセントを、気弱ながらも堂々たる論陣を張って展開しているのが、立岩氏だからだ。

「みんな生きなきゃいけない。だからとにかくみんなで分けよう」「あなたがもっているそれですけど、どうしてあなたのものだと言い張るのか、私にはわからないんですよ。一から考えませんか」。さっくり私の言い方でまとめればそんなかんじだ。実際にどう述べているか。以下は同書からの引用。

ぼくがいってることはもっとシンプルなことで、私の身体は私の身体であるということと、私の身体によって生産したものが私のものであるということは命題として違うということです》。

直観的に言えば、たくさんできる人がたくさん取れて、少ししかできない人が少ししか取れなくて、全然できない人が全然取れない社会よりも、だいたい暮らすために必要なものをみんなが一人一人受け取れたほうがいいなと思っていて、今でも基本的にそうなんです》。

分配のもっとも簡潔な形態は、世界の財、財を購入できる貨幣を人数分で割ってしまうことである。(略) ただ同じ状態を得ようとしても、その人の身体のあり方やその人が置かれている状況によって必要なものが異なる。また違いがあるからこそ分配が要請される。だから均等割りという単純な方法の全面的な採用は難しい。結果として得られるものが各人でそう違わないように、人の違いに応じた差異化された分配が要請される》。

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こうした考えの底には「働かざるもの食うべからず」への根本的な疑いがあるようにもみえる。言い換えれば「働かないと世の中まわらない。それはわかる。でもオレほんとは働きたくなんかないんだよね」みたいな、自堕落への共感すら読み取れるのだ。マルクス主義はさておきタテイワ主義に、私がつい浮かれてしまう最大の理由はそこにある。

まず人が生き暮らすためのものが必要であり、そのために生産が必要であり、それには人が働かねばならない。働くためには働く気にならなければならない。このことは動かせない。として、第一に、働ける者が働く義務はあるとする。(略) 第二に、働く人はそれだけ苦労もするのだから、少なくともより多く苦労した人はそれに応じて――しかし実際にその苦労を量ることは困難だから、それに代えて、たとえば、働いた時間に応じて、というあたりに、それにいくつか不都合があることを認めつつ、収めざるをえないかもしれない――得られることは認められるとしよう。(略) 第三に、働くことについて、いくつかの意味で――それが楽しいとか、人のためになっているとか――意義を感ずることはある。第四に、現在の技術の水準と働ける人の数とを考え合わせたとき、いったい、どれほどの人の労働が必要かと考えるなら、少なくとも現状に上乗せをするほどのものは不要であると考えられる。(略) 以上、第二、第三、第四を認めるなら、現実には、第一点を認めながらも、労働そのものを強制する必要はないだろう。また「利己」的なものであれ「利他」的なものであれ生産に向かう動機を増強する必要もさしてないだろう。また格差を拡大することによって人を働かせる必要もないだろう》。

むしろ人がもっている労働力、労働能力と別に、一人一人が暮らせる範囲、具体的には暮らせる手段である財において、一人一人がまずまず暮らせるだけは配分されていて、それでいいじゃないかっていうのが基本的なぼくの立場なんですよね》。

人には働きたい気持ちもあるにせよ、そこにはまた苦労もある。(略)たいていの場合、ものが増えていくにともない、快の増加の度合いは減っていく。しかし働く量は同じ割合で増えていくこともある。もういらないんではないかと思っている場合、人々に思われている時、働くことの辛さは増えていく場合がある》。

ある条件のもとでは、市場なら市場交換のもとで、人は生き難くなっていく、これははっきり言えるだろうと思うんです。そういう意味では、常によいことしか起こらないという話は、基本的には否定されるに決まっていると思う》。


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こうした意見に、「大学の先生が小学生の作文を書くなよ」と言いたくなる人もいるかもしれない。とりわけ経済学に詳しい人のなかに。

しかし、もともと自分に執筆依頼のあったこの本を、あえて立岩氏との対談でと提案したという稲葉氏の考えを、もっともっと深くうがってみてもいいのではないだろうか。たとえば「まえがき」で稲葉氏はこう書いている。

おそらく、ぼくと立岩さんの間には、重大な違いがある。ぼくは基本的に、今ある資本主義を肯定している。その上でできるだけそれを「うまく」使うこと、あるいはそれにともなう問題を適宜処理し、あるいはやり過ごすことを目標としている》。《それに対して立岩さんは、資本主義を否定――はしないまでも、少なくとも今あるそれとは微妙にだが決定的に異なる、「もう一つの」「別のしかたでの」資本主義の可能性を考えているように、ぼくには思われます。それはぼくの中に、感銘と疑問、共感と反発を同時に引き起こします》。

そうして開始された対談。さてしかし、野心的であったがゆえか、いちばん目立ったのは、互いの共感ではなく反発でもなく齟齬であったようにみえる。ただし私にはそこがむしろ最もスリリングだった。

そんなシーンを2つほど引用しよう。

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(1) 格差が広がっても全体の底上げがあるから経済成長は善である、というテーゼをめぐって。

立岩 一番よくある言い方だと、人間ってやっぱり他人との間の関係で生きていて、一〇〇万年前から比べて、全体としてこれぐらい豊かになった、各自豊かになったって言ったって、いま隣にいるのはいま隣に生きてる人で、そういう人との総体的な関係の中で、貧しいだの豊かだのいい暮らしだのそこそこだの言ってるわけだから、だんだんよくなっていくって言われたって、それはそれでオッケーって話じゃないでしょって人はいるよね。そういうときに、稲葉さんだったらその件に対してどう答えるのかな。

稲葉 その件に関しては、すごくプラグマティックに考えていて、嫉妬という批判――貧乏人が金持ちを批判する根拠はただの羨望、僻みだ――を食らえっていう……。

立岩 私はその批判に文句を言ってるんだよね(笑)。

稲葉 ぼくに言わせると、嫉妬という批判は確かにおかしいのであって、どこがおかしいかというと、現実的じゃない。人間は醜い嫉妬をする生き物であるという本性は変えようがないから、それに適応しなければいけなくて、悪平等って言うかも知れないけど、人間の本性は、そういう醜い嫉妬をする悪いものだから、それを受容して多少は平等にしないと社会はもちませんよ、ということで話をするのがリアリストだと思う

しかし…

立岩 嫉妬っていうのは人類が普遍的にもっちゃてるものだという。それは認めてもいいですよ。認めなくてもいいですけど。ただ、それが醜いかどうかは価値判断の問題でしょ。他人のことを羨ましいと思うのが本当は悪いことだって言わないと、醜い嫉妬心とは言えないわけじゃない。

でもなんとなくこれはスルーされて…

稲葉 本当はおかしいんですよね、確かに。これはまたある種の新自由主義批判になりますけれど、醜いって嫉妬心がなかったら競争は起きない、あなたの大事な競争は起きませんっていう切り返しだってあるわけですけれどもね。

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(2) 「不平等」と呼ばれるものを2人がそれぞれどのような現実感として捉えているか。およびそうした「不平等」は国に責任があるのかどうかをめぐって。

立岩 人は肉体において消費することによって生存を維持しているのであって、そうすると交換とか生産によってちょっとずついいことがあるところと、何かしらを消費していく人間であるということの差し引きっていうのがやっぱり常にあって、何も消費しない人間だったらだんだん貯金が貯まっていくとから、だんだんよくなっていくわけですよ。だけど人間っていうのは常々消費しながら生きていくから、それの差し引きがマイナスになったりするっていうことはありうるじゃない。

稲葉 消費するって何? 自己の身体?

立岩 自分の身体も消費するかもしれないし、いや本当にご飯食べたりさ、世の中にあるものを摂取してっているフェイズ(局面)だよね。

「金がなくなって食うにも困る人がいる」といった現実を、ここで稲葉氏はすぐには想像できなかったのかなと、私は思った。しかし立岩氏に気づかされるかたちで、稲葉氏は次のように述べる。

稲葉 厳密に取引しなかったら、だいたいの人間は消耗して死んでいくだけだ、という問題はある。(略) 具体的に言うと、借金をちょっときつめに背負っているところにたまたま失業したりしたら、大きなマイナスか小さなマイナスかくらいの選択の余地がなくなるということは、人は往々にしてある。

立岩 ぼくもまあ出発点はそのへんにあるからね。そこのところはどうするかって言った時に、取引で解消、あるいは情報不確実性を解消するという話にはならないということです。

これに受けて稲葉氏は、それは厳密な搾取とは違うわけで、ではどう解決すべきか、といった話をしていく。ただし、不平等という緊急課題をどのような実践で解消するかという関心よりも、どのような理論がそこにあるかに重きをおいている。ドゥウォーキンという人の補償理論といったものを出し、「その責任を負わせたのは国家ではないが、それでも、社会システムの管理者である国家には、何らかの補償をする責任があるともいえるが、ないと考えたほうがすっきりする」といった展開。そうして、何を強調するかというと…

稲葉 たとえば国家が恵まれない人に補償する理由は、第一には、保険の引き受け手であるがゆえにそういう責任が生じるのであって、国家というか社会が人をそういう目にあわせたからではないはずなのに、しばしばそこに錯誤が起きる可能性がある。

立岩はそれに首をかしげているかんじ。

立岩 ただ、分配なら分配の規則がこうあっていいだろうという状態というか、こうあっていいだろうという原則というか原理をいったん措いた場合に、ここまでの暮らしはできるはずなのに、実際にはそういう仕掛けになっていない、あるいはそういう仕掛けを作っていないということが言えたりするわけじゃないですか。そのことにおいてそれは不正であるというか、ある意味危害を加えているということはできます。

稲葉 (国家が)その人個別の不幸に責任がないとしても、そういう人たちがたくさんいるとしたら、そういう人たちがたくさんいる社会環境を作ったことには責任があるというか、自分の責任なしに不幸に落っこっちゃった人にできるだけのことをするという責任は、(国家に)まあ当然記せられるだろうというくらいには言えるだろうと。

立岩 ただ、ぼくの議論は、その人に責任がないから請求できるというような仕組みの話を積極的にしようというようにはなっていない。(略) 本人の責任なのかそうじゃないのか、こいつは働きたいんだけど働けないのか、働けるのに働いていないのかみたいな、今のニートがらみの議論とも関係するような、ある意味せせこましいというか気詰まりな議論になってしまう。だから自分の責任でないがゆえに請求する権利があるという話をベースのところでは取らなくてもいいんじゃないかというところがぼくにはある。

立岩 人が暮らせることについて社会に責任があるなら、その人が今どんな状態であろうと、その人の脚を折った人が誰であろうと、まったくの不慮の事故であろうと、その人が暮らせることについて社会が、具体的には国家が責任を負うということです。

稲葉 それはあえて既存のことばでいえば、道徳的にそうすべきである、そうされるべきであるとは言える。だけれども、いちおう法という社会的な仕組みをもっちゃっていると、その中に翻訳して、権利は実現されなかったら意味がないという法的な制度の枠内で言うようになってしまって、そのときに誰も責任を負う人がいなかったら結局国家がっていうことになる。法という仕組みの中では国家が呼び出されざるをえないようになっているのかなあと思うんですね、だいたいの場合、常にじゃあないけどね。

このあたりの温度差というかズレというか、けっこう重要なのではないだろうか。ただし、稲葉氏は、対談相手がもしも立岩氏ではなくたとえば山形浩生氏のような論客であったなら、むしろ逆に立岩氏的な立場の見解をどんどん押し出すのかもしれない、という気はする。

ちなみに、上記引用のすぐ前に稲葉氏はこんなことも述べている。

稲葉 法と秩序が守られて私的所有権が尊重されて、非常に経済がちゃんと回っている世界において発生する不平等は後者(引用者注:「人からもてるものを奪うことによってではなくて、人を半端なかたちで、もたざる者としてこの世にもたらす(略)というかたちでも不平等は発生する」という自らの見解をふまえている)だと思います。泥棒も詐欺師もいない、国家も重税でもって取り立てるんじゃなくて、むしろ法と秩序と福祉を提供してくれて、というところにおける不平等の主たる原因というのはそうだろうと。物理的、フィジカルな意味で、十分な準備なしに、世の中に増やされる人々というのをシステマティックに作ってしまう社会機構があるとするならば、それは不平等を生み出す。
 そういうときに、放り出されて生み出されてきた人々は、「奪われた」っていう感覚をもつわけですよね。


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さて、100%学ばされたという稲葉レクチャーについても、一つだけだが引用しておく。現在の経済システムは環境負荷という問題を生むとされるが、その環境問題もまた、現在の経済システムが成しうるという見解をめぐって。

最初に確認しておくべきは、周囲の環境、生態系への適応不全による文明の滅亡などは、産業化以前の歴史においてもよくみられたということである。現在われわれが知っている「生態系と調和した生業方式を保っている伝統社会」なるものは、過去における人類社会の標準的なサンプルなどではとうていない。それらは、たまたま周囲の環境と調和した技術体系・生活方式を編み出せたがゆえに、時の試練を経て生き残ってきた、あくまでも例外的な存在なのである。だから彼らの技術は原始的で素朴なものであるというよりは、むしろきわめて洗練されたシステムだと考えた方がいい。そして技術の洗練、革新を促す大規模なシステムとしては、われわれは市場的な分業のネットワーク以上のものを知らない》。

これはほんの一例だが、稲葉レクチャー全般から考えさせらたことは、様々にある。

なにしろ市場経済というものが、思っているよりこの世には遥かに深く浸透してしまっているのであり、後戻りなんてとてもできないのかもしれない、という、基礎的なこと。

さらにもっとものすごく認識を新たにしたこと。環境問題にとどまらず我々の社会が多様にかかえている非常に複雑な問題を、いわば自らの複雑性によって予測を超えた解決に導く可能性をもつものがあるとしたら、それこそじつは市場経済だけなのかもしれない、みたいなこと。

「生命と進化を説明できる理論は突然変異と自然淘汰の組み合わせ以外に存在しないのだ」とドーキンスが強調していたことをふと、思い出した(盲目の時計職人)。それと同じくらい、経済を説明できる強力な理論というのは、結局一つしか存在しないか、少なくともそれほど多くは存在しないのかもしれない、という気もしてくるのだった。


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最後になって恐縮だが、この本の最大のテーマは市場と所有の関わりだ。そのことにはあまり触れられなかった。


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関連する過去記事(4.21追記)
(1) 時事放談・日本経済と私 http://www.mayq.net/nihonkeizai.html
(2) 御会葬の皆様へ http://www.mayq.net/keizaigakutoiu.html