東京永久観光

【2019 輪廻転生】

"So It Goes." ―不適用例 (*追記2つあり)


バージニアの大学無差別殺人。長崎の市長殺し。

なぜ人を殺してはならないのか――。この議論が時間の無駄とばかりも言えないのは、実際「あなたは(もしくは私は)、なぜ、彼(ら)を殺さねばならなかったのか」と問いつめたい関心や必要が、時として生じるからだ。

だから今はそういう話がしたい。言論の封殺や、銃の罪悪の話よりも。

ただ、そのような議題を好む人はもともとあまり多くない。まして、そんな議論を通じて退屈もケンカもせず有意義な発見に至れる場などというのは、ぐっと少なかろう。しかしそれはまだいいのだ。

問題は、バージニアのあの兄ちゃんや、長崎のあのおっさんが、その手の議論の最も成立しにくい相手ではないか、ということだ。報道で知るかぎり、「殺さねばならない」という信がひたすら強烈だっただけのようだから。

いや、その「殺さねばならぬ」切実さについてこそ話したいのだ。人を殺さねばならないほどの根拠は、どのようにしてであっても正当化されないのかどうかを。

でも、「あいつ(ら)を殺さねばならない」といわばストレートに感じてマジ実行してしまったあの2人と、さすがにマジに人を殺さねばならない状況でもないことを、今のところは疑わない私自身が、本当にコミュニケーションできるとか、したいとか、マジに望んではいないのかもしれない。それが正直なところかもしれない。

そうして「要するにあいつらは気違いだ」と断じたくなる。あるいは「彼らこそ他者なのだ」と書きたくなる。

もちろん「真の他者なんて存在しない」と主張することもできる。

しかし、私の知っている今ここに「気違い=他者」が現実にいるのなら、彼らをそう呼ばずして誰をそう呼べばよいのか。そうして、この社会がそこに貴重な時間やお金を費やすのに、「あいつらとどう分かりあうか」ではなく「あいつらをどう遠ざけるか」を優先せよという意見に、どう反論すればよいのか。

いやそれでも……。バージニアの兄ちゃん、長崎のおっさん。あるいは、もう長いあいだ自爆攻撃にあけくれているもっと大勢のもっと知らない人々(かつての特攻隊の兄ちゃんたちを加えてもいい)。「そうか、憎みとか恨みとかあれやこれや、そういうことであったのなら、そりゃあたしかに、本当にそれをやらなければ、もはやどうしようもなかったのだ」という共感を、どこか遠くのほうに、私は探している気がする。

なぜ学生たちを無差別に銃撃せばならなかったのか? なぜ市長を射たねばならなかったのか? なぜ自爆攻撃をしなければならないのか?


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トラックバックがあったので追記(4.20)

http://kazus.blog66.fc2.com/blog-entry-2210.html

《何故人を殺さなければならなかったのか? 恐らく原因は二つ、一つは社会的責任の所在が曖昧であるということ。もう一つは奴らの堪え性が無かったから。究極的にはこの二つだと思っています》。

ここをまず読んで。これは「人を殺してはいけないという禁が破られてしまったのは何故か」という問いへの答だと思った。つまり、「人を殺してはならない」という前提は疑われていない。

それで気づいた。「なぜ人を殺してはならないのか」というフレーズに私が拘るのは、「人を殺してはならないという前提から始まるのではなくて、人を殺してもよいという前提から始まらないのは、何故なのだ」という違和感があるからだ。いやもっと強く「人を殺してもよいのは、または、人を殺すべきなのは、どんなときだ」という問いかもしれない。

ともあれ、この方のエントリーは賢明で洗練された考察に満ちている。

最後の部分。《意味不明に攻撃されるのが嫌だとか、理不尽だとか思うなら、責任の所在を明確にするべきでしょう。それをしない以上は誰もに責任があって誰もが無責任であるという結論に、反論出来ないんじゃないでしょうか》

その通りだと思った。

それでまた私の問いに戻る。では「責任の所在たる人が明確であれば、その人を殺してもよい場合、またはその人を殺すべき場合はあるのか、それはどのような場合か」ということになる。「それでもやっぱり人は殺してはならない」と言うなら、それはまた何故なのか、という問いになる。

死刑と戦争は完全には否定されていない。死刑や戦争を肯定する人が、それらを肯定するのと同じ理論や感情でもって、「あの兄ちゃんがバージニアの学生を殺したのは仕方なかった」「あのおっさんが長崎の市長を殺したのは仕方なかった」「自爆攻撃には正当性がある」というふうに考えないのは、何故か。

それはそれとして、《誰もに責任があって誰もが無責任であるという結論》から少しでも離れられるよう、私たちは歩み始めなければならないということを、強く教えられた。少なくとも「私がこんなひどい目にあっているのは、こいつ(ら)の責任だ」という説得力のある答えに、まず達することが大事なのだ。さらにこう思う。責任の所在が誰であるかを自力で本当に明らかにできたとき、むしろ、私たちは案外、「だったらそいつは殺してもいい、殺すべきだ」とまで短絡しないようになれるのではないか、と。

『いちヘルパーの小規模な日常』のあるエントリー

http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070331/p1

この最後に、《せめて、心からこいつだけは「ひっぱたきたい」、殺したい、と本気で願う相手が赤木氏の人生にあらわれますように。せめてそういう誰かが赤木氏の人生にあらわれ、もっとずっといやな目に合わせてくれますように》とある。これもそうした意味あいで捉えることができるのではないか。


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また追記(4.24)

「世界」とか「存在」とか「私」とかいろいろ呼ばれながらも、でも結局はただひとつのこのリアルさがあって、それは決定的な謎でもあると私は思うのです。そうして、そのリアル(=謎)のただなかにこうして生きている私にとって、「死」というのは、本気で実感しようとするかぎり、そのリアルをも超えてしまう、もしくはその謎にも匹敵するほどの、特別に特別な奇妙さなのだと私は思います。死刑も殺人も、そのような「死」と直結するからこそ、冷静な議論をはねつける強い否定や強い肯定が出てくるのではないでしょうか。どれほどひどい刑罰や危害も、死なないのでさえあれば、被害者側・加害者側のいずれに対しても、私は意見を変える余地がゼロではないです。ただ、本当に誰かを殺してしまう銃撃や死刑や戦闘についての是非は、なにか信仰のようなものを基にするしか、決着がつかないのかもしれません。

さらに二つのトラバをいただいて、また考えました。(トラバの内容を反映していませんが、ありがとうございました)