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【2019 輪廻転生】

★日本に絶望している人のための政治入門/三浦瑠麗

 
 日本に絶望している人のための政治入門 (文春新書)


日本や世界の政治の核心がみごとに整理される印象だが、新しい納得も多数得られる。米国は人種で英国は階層で韓国は地域で国が分断されているが、日本には分断がないという指摘もその1つ(全国津々浦々自民一色)なるほど〜そういえばそうだ!

しかしここにきて「原発推進VS原発反対」に加え「安保推進VS安保反対」の対立は、ついにその日本を分断するのか? ……どうだろう。私のタイムライン上の日本はすでに激しく分断されているが、現実の国民がそこまで深刻に憎みあい殴りあうことがありうるのか?

(日本は深刻な分断がなかった点では順調な国だと思える。なおこの著者は「闘え左翼、ただし正しい戦場で」と主張する。原発や安保は必ずしも正しい戦場ではないと。では正しい戦場とは? 「地方・女性・不正規労働」こそ権利を剥奪されている大問題だと見る。私も同感)


 *


(追記)


ほぼ通読した。日本の政治・社会の歴史と構造が重要な複数のテーマから見通せる。右寄りの論客がまた現れたと評されているが、保守にもリベラルにも問題点を指摘している。リベラルを批判しつつリベラルが進むべき道をしめした本としても読める。


=以下は内容のメモと感想=


リベラルは否定形で世界を語ってはいけない。日本の保守主義もまた否定形でしか語らない。
保守主義者よ、理想を語れ。

自由のあとにくるものはコンパッション。――これが現代日本の政治の理想を示す著者特有のキーワードのようだ。

日本にはリベラルの存在を十分に正当化するだけの不正義が十分に温存されている。非正規、地方、女性などの問題。

リベラル系メディアは、自民党=政府という権力者に対峙する弱者としての論理を十分に活用して影響力を振るってきた戦後、実際には強者であった。それに比べ、現在のリベラル系勢力は、本当にいまこそ弱者かもしれない。そして、彼らが排除して弱者の座に追いつめておいたはずの保守派が、これまで虐げられてきた弱者認識のもとに力を振るっている。保守派が踏んではならない轍とは、まさにリベラル系メディアが行ってきたことを逆の立場から繰り返すことだ。
そもそも少数派が排除の論理を使い続けることは、自らの首を絞めることにほかならない。


日本には、小さな政府主義者は皆無。世界基準でいくととても穏健。たとえば竹中平蔵アメリカ基準ではせいぜい中道。社会政策の分野でも、米国では、個人の権利を保守的な価値観からひっくりかえそうという勢力が存在する。妊娠中絶など。日本にはない。


自民党は、統治利権と、経済利権の両方を手にした。この2つの志向でなら2大政党制がありうるのだが。


民主党の失敗の1つは、地方の経済利権を築き上げることができなかったこと。自民党出身の民主党議員がいた岩手・三重・長野などは それができていたが。


リベラリズムを用意したのは、むしろ統治権力だった(ビスマルクなどを例に)。日本のリベラリズムGHQが先導した。そして憲法に支えられた戦後秩序を守ることは、官僚機構の温存という点に合致していく。大幅な政策変更は官僚機構への介入を意味するから。そうして戦後日本では官僚機構こそがリベラリズムを体現していくことになった。


維新の党への期待。一過性ではない。反エスタブリッシュメントでありながら、組織能力の高さも見せつけた。これがエスタブリッシュメントにとって本当の脅威。政治官庁学問メディアのエスタブリッシュメントのどまんなかにいる人のによる、反維新の感情は、憎しみと形容してもいいくらい激しい(著者は彼らと面会してそう実感している)

維新の地方経営における成果には見るべき点が多い。放漫財政の大幅な改善。無謬性の原則からくる日本行政のトンチンカンな性向にも挑戦している。既成政党は、それらには手を出せずにいた。――このあたりは、あまり口にしないでいる私の実感と近い。

支持の背景にはニーズがある。《維新が汲み取っているニーズは、抽象的には日本の政治/行政におけるアカウンタビリティーの欠如への不満であり、既得権益に寄り掛かった政策判断の否定であり、そうこうしているうちに日本そのものが地盤沈下していくことへの苛立ちです。


アベノミクスが評価されないわけの1つは、野中広務亀井静香に匹敵するような人間味のある大物の悪役がいないので、ストーリーが盛り上がらない(小泉劇場との対比)


歴史的偉業とは(政権のレガシーとは)《いきなり結論めいたことを言うとすると、政権の偉大さとは、その国がもっている「くびき」を乗り越えるための努力をどこまでできるかということではないかと思っています》。では、日本のくびきとは? 日本にはわかりやすい形での大きな分断がない。それは社会として国家としてとても幸福なこと。《戦後長い間、先の戦争への評価は日本人にとって、わかりやすい、くびきと呼びうるものでした。戦争への評価やその象徴であるところの靖国神社や、南京大虐殺や、慰安婦への評価は日本人を明確に色分けする、一体感を損なうテーマです》。――やはりそこに焦点をあててきたか… だが、実はそのとおりだという実感はある。

《私は、日本のくびきというのは、くびきを意識させない気風、あるいは、ある種の一体感信仰ではないかと思っています》。《そして、一体感を損なう、空気の読めない行動や言説への反発と制裁には実に激しいものがある》。東日本大震災における「絆」も、非常に強力な規範意識が宿り、大きな社会的プレッシャーを作りだす。

――だからどうしろというのかというと、開かれた保守をめざせ、ということのようだ。

《偉大な政権とは単に一体感を高めた政権ではなく、一体感の向こう側に意識を向けられたかどうかということではないかと思っています》


ソビエトや中国の影響を受けた諸国が不合理をかかえているのに比して、米国が提供した秩序はフェアだった。そこには保守もリベラルもお互いへの不満をぶつけ、米国に不満をぶつかることが許された。

安倍政権の開かれた保守は、再び日米外交がリアルな意味合いを持ちつつある時代に登場したからこそ論争的であり、重要なのだ。


地方創生について。たとえば、金銭解決に基づく自由解雇を認めて雇用の流動性を確保しつつ、セームワーク=セームペイ(同一労働同一賃金)を強制して若年現役層の賃金の充実を図ってはどうでしょう。――具体的でポイントを突いたアドバイス

問題は、これくらい踏み込まなかったら、地方創生にどんな未来があるのかだ。《我々はそろそろ自らを欺くことをやめなければならないのではないでしょうか》


国家vsグローバル経済。そもそも国民国家とは国家内の公平を実現するために国家間の不公平には目をつむるという制度。――萱野稔人と同じような指摘。

公平さへの配慮を欠いた日本の民主主義。何のことかというと、最大の1つが非正規労働の問題。労働組合も労働規制も、本来は労働者を守るためなのに、労働者の4割を守れていない。
労働組合は仕方ないとしても、政党の責任は免れない。

《しかし、思えば、各種の税金にせよ規制にせよ、国民国家はずいぶん踏み込んだことを個人にも企業にも要求するものです。その要求の一つが、「同じ仕事に対しては同じ待遇を与えなければならない」であったとしても、それほど実現が難しいものなのでしょうか》――まったくだ。

非正規労働の問題を解くカギは、資本主義に背を向けることではない。それは民主主義と向き合うことだ。――これもまったくだ。


個人主義に基づく戦後フェミニズム。これには2つの致命的弱点がある。日本のフェミニズム運動が、富裕で文化教養のある専業主婦の権利を重視する形で進展したこと。――そうなのだろうか、けっこう意外な気はするが。

2つめは、出生率の低下という共同体にとって死活的な問題とぶつかったこと。

そうではなく、共和主義に基づくフェミニズムを。個人主義に基づく「守られる権利」や「平等な権利獲得」の果実の上に、共同体の宝である子供の福祉を重視する、「みんなでサポート」する政策へと転換することだ。


外交や安保について。世界と日本の議論が最も乖離しているのは:《冷戦後の世界の論調の構図は、世界に存在する圧倒的な暴力の前には積極的な介入が必要というリベラルなタカ派と、それに伝統的な国益の立場から抵抗する保守派の対立。両者が見逃しており、避けてきた問題が実際に介入を行うのは誰かということであり、それはどのような犠牲の下に行われるのかという問題です。各国による海外での武力行使とそれに伴う犠牲とは、各国内に共通して存在するに至ったいわば傭兵的階級によって支えられています。/このような視点は、日本の集団的自衛権論議には皆無と言ってもよい》

自衛隊の存在は違憲のようにみえるが、それを法解釈で正当化してきた。この「ごまかし」。

著者の結論。日米同盟以外の現実的な選択肢があるようには思えない。民主主義国の同盟が、当たり前に集団的自衛権の行使を前提にしている。そのうえで、どのような場合に実際に武力を行使すべきかについては、今の国際社会のコンセンサスよりも相当保守的であるべきだ。戦後日本が築き上げたガラス細工の解釈からそろそろ卒業して、《国際的な問題の解決につながらない武力行使や、国内的な不正義に支えられた武力行使に反対する国家=平和国家というのが日本の進むべき道ではないかと思っています》。


戦え左翼。ただし正しい戦場で。安保法制をめぐる今回のごたごたも《けれど、ある次元では、今回のごたごたも理想論ではない日本の民主主義が健全に機能した結果だと言えなくもない。我々のすぐ近くにも、恐怖と抑圧の中でそもそも議論が封殺されている社会もあれば、日本にもごまかしと欺瞞の中で議論そのものが成立しない分野もあるのですから》(なお同書は安保法制成立前に書かれた)


Gゼロの世界。米国が日本やアジアから手を引かなければならない世界。

局地的な軍事バランスはものをいう。核抑止は効いているわけだが、それは国家存亡の危機にしか意味を成さない。局地紛争では局地的な軍事力が意味をもつ。たとえばウクライナがそう。米欧には軍事的選択肢がない。日本にとっては、米国とともに東シナ海における局地的優位を保持すること。それは紛争がそもそも起こらないようにするために重要。


ロシアのウクライナ介入は、NATOのユーゴ介入やフランスの旧宗主国としてのアフリカ介入に似ている。ただ武力でつぶすほどの敵がウクライナにいなくて戦争にはなっていない点が違う。ロシアが、シリア、中央アジアベトナム、モンゴル、北朝鮮に影響力をもつことを考えれば、ロシアとの協力関係ということの戦略的価値を過小に見積もってはならない。ウクライナ問題は、ロシアが矛を収めるという、ありそうにない展開以外にエンドはない。

冷戦期のほうが冷静だった西側諸国。――なるほど、そうも言えるか。これは重要。

レトリックだのみのオバマの危うさ。もしマケインだったら、もしロムニーだったら、
なんらかの道を見出したのではないか。

日本の現実主義者による批判も現実的ではない。安倍政権が現実にとっている対ロシアの行動や制裁は毒にも薬にもならないもので、大義や理想は感じられないが、《うまく立ち回るという意味では大人な対応であり、現在の官邸の仕事師的な手腕として評価すべきでしょう。

ラビン「平和とは友との間に結ぶものではない、敵との間に結ぶものだ」

制裁の火遊びをして、ロシアを敵にしてはいけない。それは、我々の前に生きた世代が、耐え難きを耐えてソ連との間に平和を結んだことへの裏切りであり、我々の後を生きる世代に禍根を残すことに他ならない。


日本は、米国が朝鮮半島を統一的に占領する形で降伏すべきだった。終戦期までソ連の中立を信じて終戦工作に望みをつないでいたあたりに、今に至る朝鮮半島の悲劇の一つの淵源がある。


米国の同盟は、国民の支持に基づく同盟と、プロによって管理される同盟に大別される。
前者は、米英関係、西欧との同盟、イスラエルとの友好。後者は、パキスタンやエジプトとの関係。韓国との同盟もこの色彩が強く、帝国経営の意志が体現されている。日米の同盟も、どちらかといえば後者に近い。民族、宗教、歴史をほとんど共有しない国同士が血みどろの戦いを経て、かつ冷戦という新たな脅威を前に手を結んだ稀有な例。