ゲンロンカフェ(ニコニコ生放送)=5日=
「山口二郎×津田大介×東浩紀「ポピュリズムの台頭とリベラルの対抗戦略——21世紀に民主主義は可能か」
・http://live.nicovideo.jp/watch/lv269423928
・http://genron-cafe.jp/event/20160805/
12日にタイムシフト視聴した。
最後の最後、グローバリズムが台頭しナショナリズムが無効になる現状でも、民主主義にとって同胞意識は必要だろうという話になり、では、血縁も地縁も非常に薄いと言われる日本で「ナショナリズムに代わる紐帯はいかにして可能か」と問うていた。
企業、労組、業界などの中間団体に その役目が期待される、というのが1つの答えだった。日本では仕事を通じて「同じ釜の飯を食う」仲間のつながりだけは異様に強い、と。日本に伝統的だった「イエ」は、じつは擬制の家族であり、現在の「会社」はそれに近いだろう、と。
個人が ただ国家の会員であるだけで他には何ものにも縛られない、そんなまっさらな自由は、必ずしもベストではないという思いが、そこには にじんでいる。上野千鶴子の名を挙げ「おひとりさま」は本当に未来を開くのか、と疑問を呈する。丸山真男の思想の限界にまで言及する。
これに関連しきわめて興味深かったこと: この鼎談では大阪の維新がぜんぜん話題に上がらず、とても意外だったのだけれど、山口二郎氏は、途中でたった一言「バラバラになった孤独な群衆にとってのヒーローが橋下徹だ」という主旨のこと(正確な引用ではありません)をポツリと言った。
そんなふうにして、現在の日本の私たちが直面しているかもしれないジレンマの正体が、見えてくる。グローバリズムかナショナリズムか? リバタリアンかコミュニタリアンか? たとえば労組や農協や医師会なんてただ消えればいいのか? イエは単なる悪か?
山口二郎さんは橋下徹さんを毛嫌いしてきたことが知られているが、このジレンマが、そこにはいくらか重なっているのではないか。これが私にとって最大の発見だった。
(なお、この鼎談で、山口二郎さんは、意外なことに、野党共闘と市民連合の単純戦略とその大失敗を大いに反省し改心すら促している。鳥越俊太郎も行きがかり上支援せざるを得なかったんだと独白している。「安倍を叩き斬る」のフレーズも戦術にすぎず、内心、安倍さんにはすまないと思っているという。
それどころか山口さんは、もっと驚くべきことを言った。かつて英国のブレアは、労働党の魂であった「生産及び交易手段の国有化」という党綱領第4条を捨て、現実路線に切り替えて政権をもぎとったが、かつての社会党にとっては第9条がそれだったのだ、と。つまり山口さんは改憲派とも言える。)
さて、そんな中でさまよう私たちの思い。…だいたい日本の人々は、とりわけニコ生やツイッターの中でこそ心がよみがえり心がおどるような日本の人々は、まさに孤独な群衆だろう。私もけっして単独で生きてはいないけれど、平均的なイエや平均的なサラリーマンの生活とは、縁遠い…(逡巡、続く)
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飛躍するかもしれないが:
建て前に縛られ、根回しが求められ、とにかく白黒をつけない、日本社会。私たちはそれに飽き飽きしているわけだが、私たちはそれが完全に嫌いでもないのだろう。そしてそれは1つの知恵ですらあるのだろう。『シン・ゴジラ』が描く組織の「功と罪」もそこに重なるかも。http://www.shin-godzilla.jp
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http://mainichi.jp/articles/20160813/k00/00m/010/062000c
(小池都知事が都政改革本部の顧問5人発表)
上山信一氏は橋下徹の顧問だった人。他人事だった「維新、是か非か」が東京でも問われざるを得なくなった。
ちなみに、都知事選の直前、上山信一氏が語ったこの記事には「目からウロコ」感がありありだった。https://newspicks.com/news/1685454/body/
昨今「原発の是非」「安保法制の是非」が国民を二分する不毛な争いになり個人的に心労がつのってきた。「維新、是か非か」は、もっとひどい争いになりそうだから、避けて通れないとわかっていても、個人的には避けて通りたかった。しかし、もはや避けて通れなくなった。東京都の現実が今ここに来た。
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日本の政治に関し、東浩紀と三浦瑠麗の2人の見解が、今の私には最も参考になるが、東氏は維新に肯定的でなく三浦氏は維新に肯定的であるように見える。ゲンロンカフェの2人の議論が非常に楽しみなのは、その点なのだ。(思えば、ゲンロンカフェの宣伝ばかりしている。少し振り込んでもらいたい)