東京永久観光

【2019 輪廻転生】

藤原新也『印度放浪』


旅行記というのは読むだけでなく論じる対象としても面白い。それで、藤原新也沢木耕太郎蔵前仁一小林紀晴、猿岩石という系譜を想定してまとめ読みしたことがあった。以下はその個人企画で読んだ藤原新也『印度放浪』のメモ。わざとらしくも批判的なのは、そのせい。

さて、この手のまとまりなく長いテキストまでブログにアップしだすとキリがない。ところが一方、読んだ本のことはブログという網に引っかけておかないと自分でも整理がつかない気がしてきたのだ(私たちはなんだか遠いところまで来た)。そうかといって、ブログのために改めて文章をまとめるのでは、けっこうな時間を食ってしまう。こうした読書メモを軽く水洗いしてささっと切り刻んで、それで用が済むなら、それに越したことはない。

本はいわば「ミームの適切な単位」とみなすことができる。だから、さまざまな一冊についてそれぞれ感想などまとめておくと、使い勝手のよいデータとして貯まっていくだろうとの期待が、そもそもある。時事ニュースも同じくミーム的だが、内容が変化せず始まりと終りもはっきりした書物のほうは、なにかものを言う対象としていっそう適切とも言える。(それでふと思ったが、ソーシャルブックマークこそ、今まさに「ミームの単位」として非常にうまく機能しているのかも)

以下長いのに、前置きも長くなった。


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藤原新也『印度放浪』(朝日文庫) ASIN:4022607742


●藤原の処女作 1972年。この本はそれの文庫化。新しい前書きと語録が加わっている。

●ストレートな主張がある。表紙をめくるといきなり《歩むごとに、ぼく自身と、ぼく自身の習って来た世界の虚偽が見えた》。これは、本文にある文章の抜粋のようだ。そのあとの写真に添えられた短文もそう。いわば、予告編か。そして、藤原はインドで悟る。

●この本全体を通しての印象だが、インドについても文明についても藤原の主張はものすごく当を得ている。しかしそれだけに今となっては当たり前のように響く。それは80年の日本批評(『東京漂流』)もそうだ。これは、藤原の言説によって我々がもうしっかり学んだということなのか。80年代は遠くになりにけり?

●移動のルートに合わせて進行する旅日記ではなく、独立したエピソードと思考の断片を短めの文章にまとめ、アトランダムに並べたといった感じの一冊。

●『東京漂流』は面白く読んだ。完全に納得のいく主張だったが「カッコよすぎるぜ」という思いもあった。旅行者はカッコよいか、カッコ悪いか。ともあれ私にはどこかで藤原に反抗したい気持ちがあるようだ。その正体を知りたい。

●全体を読んで。少々レトリックに溺れているのではと思った。まあしかしそれは暇だからだ。風景や状況をいくらでも厚塗りできるのが暇人の放浪者だ。

●『印度放浪』には、『東京漂流』のような文明批判、日本社会批判はほとんどない。

●旅そのもの、旅の記録(=『印度放浪』本文)、その前書き、その後書き、文庫判になった際の前書き、後書き。こうした推移から、藤原の印度の旅ではなく、藤原にとって旅とその記録というものの位置づけがどのように推移したかが読み取れるのかもしれない。

「十五年目の自白」

1984年に40歳を迎え壮年期の自覚がめばえた藤原。「あなたはなぜインドへいったのか」という質問に、藤原は長いあいだ反発し混乱したと答えている。そしてこの本ではとうとう自己韜晦のようにして言う。「負けにいったんじゃないか……」。しかしこれは一度勝利を味わった熟達者だけが言える台詞だ。猿岩石は、騙されて、テレビという馬鹿馬鹿しい企画のためにインドへ行ったのだし、そしてそういうことをべつにロマン化はしない。結局 藤原はロマン派だ。いや旅人はみなロマン派にすぎない。そのことを藤原は本当は知っていたのではないか。感じていたのではないか。だからこそ反発したのではないか。反発と混乱を、知っていても口にする決断ができないまま放置して、とうとう韜晦しかなくなったのが藤原なのではないか。たとえば下川裕治ならこんなカッコいいことは言わないだろう。カッコ悪いフリをするのもバックパッカーの性根の悪さだが、下川はそれでもない。沢木耕太郎はどうなのだろう。このあたり、旅行記を読むテーマたりうるのではないか。

●《青年は何かに負けているようであった》、太陽に、大地に、熱に、牛に、汚物に。この文は若かりし自分を思わせるある青年について書いている。早い話が「オレ(藤原)はインドに負けた」ということをちょいと詩的にロマンティックに説明したのだ。さて、藤原を訪ねてきたというこの青年は私の世代に近い。だから私は、藤原青年の代弁はできないが、この青年の代弁ならできるかもしれない。そのうえで、私がほんの数週間旅行しただけの経験を思い出して言うなら、藤原が40歳になってやっと負けたインドに私はいわば最初から負けを認めていた。私も藤原と同じようなロマンをきっとインドに求めただろうが、それがロマンにすぎないことも最初から知っていたように思う。

●藤原は言う。《複雑な犯罪を犯した知能犯を長い尋問の末やっと自白に追いやった》。知能犯とは自分を指している。《俺の犯罪の動機というものはそんなに単純なものだったんだろうか》 …… 違う。藤原の動機はもっと単純だった。そんなカッコいい話じゃない。そのことを『印度放浪』をたどりながら推理すべし。つまり時効になった事件の動機を探るというノリ。

「語録」

●この「語録」の章は単行本版にすでにあったのか、それとも文庫版のときからか。『全東洋街道』と『印度放浪』を比較する話が出ているから、おそらく文庫の時点だろう。1984年。

●それにしても、なぜ「インド」でなく「印度」なのだろう。それと「放浪」という言葉も、我々は今や疑いなくしては使えないところがある。

●インドへの準備。それは捨てること、そして準備しないことだった。これは黄金律となり、その後のバックパッカーに長く受け継がれたかもしれない。注意すべきは、藤原は自らをいわば超越論的な外部に置いていることだ。つまり、自分は準備しないことで情報化社会の外にいられたと思っている。すなわち情報ではなく実像を見た(そうは書いていないが)のだと。《情報を入れれば入れるほど安心はふくらむけど、実像は遠ざかるよ。十人の人が同じ情報を頭にぶちこんで「自由の女神」を見た場合、皆同じようにしか見えないんだね。今の情報化社会の旅はこの病がおそろしく深い。むしろ実像を見るのが怖いってことかな。実像が自分を侵さないように情報によって保護膜を作ってるのかも知れないね》。今や、すっかり言い古されてしまったかのような真理だ。……いや、言い古されたからといって真理でなくなったとはかぎらないが。

●藤原の文に先人の旅行記のことはほどんど出てこない。堀田善衛が『インドで考えたこと』だけをわざわざ相対化している。継承しているわけではない。(ちなみに椎名誠の『インドでわしも考えた』というタイトルとスタンスは実に的確なものに思える) 堀田がわからなくなったと書いた最後のくだり、《僕の旅はそこから始まったような気がする》。《いま人間の作りつつある機構を見ていこうじゃないか。片手に石を持って人の顔を見るとか、自分が人間として持ちえる最も根源的なもので対抗していきたい、そういう気分があったと思う》。いずれにしても、ここでまた言えること。藤原は「答え」を何一つ持ちえなかったのだが、探求することへの確信つまり「問い」だけはきわめて明快に持って旅立ったということ。まあ、最後の近代人だったのか。

●そのあとに述べていることも無視しがたい。70年代の旅行を批判しているからだ。要するに、インド行きがポピュラリティを持ってしまった、誰でも行ける、だからといってインドは分からないぞ、という先輩風だ。インドの解釈が偏向したという指摘も匂わせる。「自然に帰れ」「安らぎ」「神秘」でインド解釈をしてはヤバイぞと。《昔からどこの国の文化でも、日本に入ってくると全部咀嚼されて可愛くなっていくということがあるでしょう。今度はインドが、全くそのコースにはまっちゃった》。実はこの台詞はそれから幾度も繰り返されてきた。あらゆる古い旅人が新しい旅人にボヤく紋切り型として。昔のインドはこんなんじゃなかった。昔は本当のインドだった。昔はこうだった。昔はよかった。

●あるいは、ここにある文章は藤原が旅立った動機を述べているのだろうか。つまり、「自然に帰れ」「安らぎ」「神秘」といった安直なインド解釈への対抗心が動機となって旅立ったのだと。「自然」「神秘」「安らぎ」といったキーワードは、藤原のインド体験にこそぴったりのように一見おもえるが、『印度放浪』を最後まで読むと、そうでもない。

●もうひとつの観点。《あの自然を模倣すれば、人間社会の管理から全くはずれちゃう。本当は非常に危険なわけだよ》。現在の我々は「インドの自然、神秘」という言葉をむしろ「危険」と裏腹のものとしてもすでに受け取っているから、藤原がそれをわざわざ主張する意味が分からないとも言える。しかしながら、「インドの自然」「インド神秘」というフレーズに、危うさあるいはアナーキーさそして死のモチーフを、加えて塗りこめたのは、もしや藤原の旅行記が最初だったのか。

●ともあれ、バックパッカーの思想の原点がここにあることは間違いない。たとえば「準備はしない」ということ。それからまた「その土地になじむ」ということ。インドで汚れて周りの反応が変わってきたという話。《僕は半年くらいで乞食から無視された》。

●ところで、貧乏旅行のバイブルを探すとどうなるだろう。『印度放浪』から『深夜特急』へという流れはあるようだ。やがて凡人の旅としての蔵前仁一。たとえば『ゴーゴー・インド』。蔵前が「私は観光はします」と言っていることは注目に値する。人は、他人が旅したところしか旅できない、という諦観。これはとても大事な諦観なのだ。私が旅行記を読んだりあるいは自分で旅行の日記を書き留めるときのメインテーマかもしれない。

●インドは文字で何かを伝える土地ではない、という。しかし、インドという「場」をそのまま伝えることはそもそもできないのだから、言葉に置き換えるしかない。《ぼくはインドに行って、そのインドの実相を日本に伝えるのに、文章と写真という二本立てでやってきた。これはおおまかにいえば、かつてインドの実相を伝えるメディアが文物であった、その方法論と同じようなものです》。玄奘に自らをなぞらえる。大げさ? つまり、藤原は自らの体験の実在性、確実性、(少なくとも自らにとっての)超越性というものだけは固く信じているようにみえる。それなのに、こんなことも言っている。《インド、チベットに行って神秘を売り物にするのは、一種の詐欺だね。瞑想ってのも好きじゃない。神って言葉も好きじゃない。そういう形式は信じない》。それなのに、そのすぐあとでこういうことを言う。《人間の体を見ていて神々しいと思ったのは、いっぺん沈んで浮かんできた水葬体だね。(…)半眼微笑の仏像そっくりな場合すらある。それが二三日たつと(…)まるで不動明王。(…)水に投げられたひとつの死体をずーっと見ていると、人間の持っているすべてが見えるよ》。「神秘」の代わりに「実相」とかいう一ランク高いとでも言いたげなものを、藤原は売り物にしていないか。いや本当に一ランク高いのか? どうなのだろう。

●旅という世界には、他人より多くの所に行ったから、他人より長い旅をしたから偉い、といった暗黙のルールがある(くだらない)。それと似たような落とし穴に藤原はハマっていないのか。インドについて、他人の語ったことを、信じない。それは言い換えれば「体験の特権化」ではないのか。自分が見てきたのだから、メディアを通したものではないのだから正しい思考ができる、とでもいうような。そういうドグマ(ドクサ)が、藤原の旅の文章を支えてはいないか。藤原は猿岩石を批判する。それに乗じて沢木耕太郎も批判する。しかしその批判がついには藤原自身への批判になることはないのだろうか。死体を見たからといって、それはどれほど素晴らしいことなのだ。死体を知り尽くしていることを自認する養老孟司だって同じようなあやまちに陥ってはいないか。戦争体験の特権化も同じではないか。他者とはどこにいるのか。

●ちなみに、神秘化というのはこういう部分。《東南アジアの空気の中には人を睡眠に誘う素粒子が含まれているように思われることがある。亜熱帯の湿度と温度の中で揮発する鬱蒼たる食物世界のエーテルが我々をとりまいているせいかもしれない。その植物世界で育まれた成仏という思想が無為の王であるように、この土地で眠りは、無為の王のための日々の錬磨であるようにさえ見える》。いわばオリエンタリズム

●《水に投げられたひとつの死体をずーっと見ていると、人間のもっているすべてが見えるよ》。ということは、藤原も日本では過去においてそういうものを見たことはなかったということの表明にほかならない。では、インド人は人間のもっているすべてが見えているのか。そもそも本当にインド人は死体をずーっと見ているのか。これこそオリエンタリズムではないのか。西洋を擁護するためのオリエンタリズムではなく、日本を批判するためのオリエンタリズム(よけい複雑)。そうか、旅とは現状批判という救いを手に入れるために異境を捏造することに他ならないのだ! ではそこから逃れる方法は。旅行記を疑え。そして、真に現状を分析できている旅行記を探せ。そうした表現の可能性を探れ。

●この語録の最後に、ずっと藤原についてまわる、死体を食う犬の話。しかしこれは、「戦争を知っている者は、戦争を知らない者とは違うんだ」という信念と同じように思えるのだが。ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。いや本当はこう言うべきではないか。ニンゲンは犬に食われるほど自由じゃない。

●藤原は死体を焼いた灰を口に入れてこう思ったと書く。《僕らが住む三次元的世界のもんじゃないんだね。そういうある種の反世界みたいなものを口の中にぽっと入れたわけでしょ。その時何か、意識がポッと変わったような気がした。……あの一件は僕にとっては、いいことだった。それで自然に普通の生活に戻ったんだから》。しかしここにあるのは、印度の身体ではなく印度の観念なのだ。なぜなら、物質としての灰は三次元世界のものであり、人間の灰であろうが木の灰であろうが物質としての味は一緒であり、そういうことを身体性というのだから。「人間は犬に食われるほど自由」なのだとしたら、灰もまた三次元のものであるという自覚によってであるべきだ。ところが藤原はそうではない。藤原は「観念の人」だ。思考の人だ。レトリックの人だ。すぐあとで頭蓋骨についてこう自覚している。《こちらが表情を解釈するわけです。一つの観念ですけど。最初ぼくは頭がい骨が非常に深刻に見えた。それが(…)頭がい骨が全部笑って見えた(…)》 頭蓋骨が悩んだり笑ったりはしない。その深刻も、笑いも、観念だ。

●インド体験で本当に正しいのは「いやはや」という脱力感なのではないか。少なくとも私はそうだった、そういう世代だったように思う。藤原のように悟ることはない、沢木のようにカッコよくもない、そのような旅行記はないのだろうか。「さらばカシミール」(『印度放浪』のなかの一編)のような話にはそれ(「いやはや」)があるのだが。

●インドに長くいるとだんだん虫みたいになってくる、何か土の力に引きつけられると藤原はいう。そんな神話的な話(表現)を今になっても信じている旅行者はたしかに存在する。旅行記も存在する。しかし、本当は旅行者は土に引きつけられるのではない。宿の安さにこそ引きつけられる。交通機関の不備によって引きとどまる。パスポートの期限や次に就く職の事情でその旅行は決まるのだ。

●「インドに引きつけられて」という旅行者の多くは、藤原や沢木らの旅行記に引きつけられただけではないのか。しかしそういう時代ももはや過去になったかもしれない。ターニングポイントはどこだったのか。

●写真とは撮るもの見るものに対するいけにえであるという。《ぼく自身の観念や思想を介在させたいけにえ》。つまり、あるがままの世界がそこにあるわけではない。

●《管理された市場としてのスーパーマーケットの出現は、街の魂と魑魅魍魎を封印しちゃった》。言いたいことは分かる。しかし、封印されたあとに(跡に)出てきたのが新興住宅地であり、まさにそこで起こったあの金属バット殺人事件こそが、真の意味で「魑魅魍魎」と呼ぶべきだ。ならば、どうして藤原はそこ(新興住宅地)を旅しながらそこを切り捨てることしかしないのか。どうしてそこを他人事にして封印してしまうのか。インドで魑魅魍魎と対面して悟ったんじゃないのか。それなのに日本の現代の真の魑魅魍魎にはちょっと冷たくないか。でも藤原は、なぜか川俣軍司には共感の目を向けている。このあたりにこそ藤原の拘りが透けてみえるのかもしれない。オウムについての藤原の発言があれば知りたいと。

●語録最後の決めぜりふ。藤原さんの目指しているトーンみたいなものという問いに答えて、《一言で言うと闇だネ。物が見えるっていうのは、光と陰があるから見えるんだみたいな考え方があるけど、それは浅いんだよ。光も陰も無くなって闇の状態に近くなっている処を撮れれば、それが一番存在感があるわけだ》。しかしふと思う。ここにある講釈は後年に付け加えられたものだ。もともとの『印度放浪』にはこんな説教臭さはなかったとも言える。本来の『印度放浪』はなんというかもっと、軽い。そして笑える。この語録は、深い。しかし笑えない。ただし、『印度放浪』が笑っているのは、インドとそこにいる己の卑小さであって、一般的な己の卑小さではない。大馬鹿な自分を笑っているのであって、利口な自分を笑っているのではないことに注意せよ。この点すなわち「自分を馬鹿の位置に置く」というロマンが「自分のずるさというリアリズムを隠蔽する」ことにつながってはいないか。隠蔽ができるとしたら、それは藤原が美文家ゆえかもしれない。

<第1章>

「昨日への旅」ボンベイからマドラス

●インドの列車、大混雑という定番アイテムがここに出てくる。おもしろい読み物。なにかどうでもいいような目的(象狩見物)で移動するというモチーフ=古典的なモチーフもここに出てくる。退屈という属性もここに出てくる。貧乏な席という属性も。

「さらば、カシミール

●これまた定番、インドで騙される、の巻。

●意外にも、観念(批評)ではなく出来事の記述が主体となっている。面白い出来事だし書き方も味があって、読ませる。ここにあるのは教訓ではないのだ。ただのバカ話、ただの昔話なのだ。かしこまった文学臭もない。

●この話は藤原が最初に書いたものなので愛着があるとか、後書きで書いている。《ぼくが考えているインドの国は、およそ、こんなにろくでもないものばかりの寄せ集めで成り立っていたのである》。それなのに、『印度放浪』と「藤原新也」のイメージは、結局なんだか大層なものになっている。藤原自身がこの印度放浪の旅でそう(大層に)なっていったということなのだろうか。

「少年」

●ストーリーは特にない。宿の少年のスケッチといったかんじ。

寄生虫

●これも特に深刻ではなく、ちょっとしたエピソード。

「野ネズミの食った果実」

●ここではヒッピーについて、ちょいと考えさせられる記述がある。《ぼくは、インドでヒッピーと出会うたびに、劣等感に悩まされつづけたのである。インドのようなところで「生(なま)」の行為のみをよりどころとする人間の前に立てば、行為をいつも表現に結びつけようとする者は、まことにぶざまである》。《いつも帰る場をしつらえておき、生の行為を絵や文字によってはぐらかしながら旅した者のいったい何が、「放浪」という名で呼ばれるだろうか。ぼくの旅はそれだけの覚悟によっていない》。ここでの藤原は自らの出自のいかがわしさを自覚している。

●それにしても、藤原がヒッピーに対して劣等感があったとは! しかし、そのヒッピーもまたそれほど純粋、偉大ではない。《むしろ、ほとんどが、ぼくのような中途半端な連中である。どう中途半端か。死への覚悟という点においてだと藤原は考えているようだ。《突っ走る野ネズミの持つ唯一の能力は、ひたすら死ぬことではないかと思う。何か間違ってそれ意外の能力を発揮したとするなら、それはみじめであり、往生際が悪いということだろう》。《ヒッピーに限らず、世界のどこにでもいる若者の多くは、死の行進中、横道にそれた野ネズミのように、なんとなく中途半端な気持ちで会社に行ったり、学校に行ったり、絵を描いたり、文を書いたり、写真を撮ったり、音を出したりしているのではないだろうか》。《あの荒涼とした土地に、ひたすら行為を求めているかに見える若者の中にも、欺瞞が見いだされても不思議じゃない》。放浪という自分も含めた大げさな振るまい全体に対して、懐疑が述べられていると言っていいのではないか。

●ヒッピーとの対話。「日本にはいったい何台カメラがあるの」「インドにおけるヒッピーとおなじくらいさ」。この会話は重要だ。インドのヒッピーと日本の工業生産品を同列にして無価値化しているからだ。しかし、藤原はインドの原体験だけは疑わないようになっていく。そして、日本の古いカメラに対してだけはかろうじて持っていたわびしい愛着からも離れ、80年代の日本はもはや冷淡に断罪するだけになる。インド体験が藤原になしたのはこういうことだったのだ。この話は第二章でも出てくるプシュカールが舞台。でも第一章のこの文章はずいぶん軽妙。第二章はかつての戦地を後日訪れた軍人のロマンチックな回想のような感じになる。

●ただし、この本で忘れてはいけないのは第一章と第二章の違い。藤原は第二章を帰国して三年後に書いたと述べている。すなわち、インド体験を第一章では軽妙にすら書いていたのに、日本におけるインド的なものの欠如を味わわされて書いた第二章には、いわばオリエンタリズムがある。幻想の、オールタナティブとしてのインドがある。

「生残り戦士の描いた朽ち果てる前のパン」

●ラジャスターンのラージプート属の末裔について。ちょっとファンタジックな歴史話。そしてプシュカールを二度目に訪れたときの話。村の無名の画家の話。第二部のプシュカールと同じく暑さにうだってはいるのだが、決して悲愴感はない。現実の生活に対して建設的である。

「二円三十銭のマハトマ・ガンジー

●これなんかもインド風俗スケッチだ。いわば自分の内面に目が向いていない。これが二部との違いだ。まあ掲載された雑誌に合わせたということもあろうが。

「聖者、あるいは花の乞食道」

●これまたインド旅行記の定番かもしれない、サドゥの話。そして、またもや軽妙。洒脱ですらある。サドゥなんて、それこそ現代文明の日本や資本主義社会を相対化するための事実、武器としていくらでも使えるが、どうもそういう方向に藤原の筆は向かない。ただ黙ってサドゥを見て楽しんでいる。ここでのサドゥ描写はサドゥの持ち物検査だ。考えてみれば、旅行記とはこうした物品や金額によってきわめて唯物論的に描かれる。それがおそらくインドの神秘やインドの観念を遠ざける一つの方法なのだ。図らずも藤原はここで、サドゥを観念や思想にまぶさず荷物と服装の描写に徹している。《研究の結果、なぜこのような得体の知れない人がいるのかがわかったところで、それはその人の生きることのたしにはならないのじゃないだろうか、とも思う》。《それよりも、聖者たちのちょっとプライベートなことについて触れてみよう》。ここでふと思うのは、藤原の「なぜインドへ行ったのか」の問いもこれくらい軽く受け流すことができれば、藤原のインドは観念化、思想化しなかったのにということだ。

●ここの最後はこうだ。《ともかく、ほんとうのところは、あなたも聖者を見ておかしいのかもしれないし、聖者もあなたを見て可笑しいのかもしれない。いずれにしろ、彼らを見ておかしかったら、一度吹きだすがいい。そして笑いがおさまったなら、もう一度彼らのことと、ぼくたち自身のことを、もう少し率直に突きつけあわせるべきだと思う。たしかに可笑しい。ファルス的。悲劇でもなく喜劇でもない。それにひきかえ第二章はなんだか深刻なドラマなのだ。近代っぽいというか。あるいは中世っぽいのか。ロマン主義なのか。そのあたりは、文学理論など参照のこと。我々は『印度放浪』を読んでこういうふうに吹き出すのがいいんじゃないか。インドの深刻な実相を記した書本として受けとめすぎなのではないか。

「ハダシのインド人との対話」

●この話は前の話に続くちょっと滑稽なファルス。こういう文章を私は高く評価したい。それ以降の旅行記がどれも、貧乏やとんでもない体験をあまりに笑いすぎるからだ。ネタとして狙いすぎた書き方をしているからだ。そして、自分を笑うということで、結局自分を主人公にしているからだ。ここにある藤原の旅行記はそうではない。主役は自分でもなくインドでもなく。なんだろう、このストーリーと文章にあるのは。

●この話の結末は、サドゥがただ藤原の名を訪ねそしてその名を聞いて満足して去っていくというもの。名を聞くというシンプルな問い。この健康さこそ、そうだ、アメリカ経由の日本社会の病的さの対局にあるものではないか。我々のいわば病的な問いをすっと越えてしまっているところの健康さのような気がする。ここにある境地というか空気というものが、おそらく旅が出会える最高の形なのではないかと私は思う。その境地をどのような言葉にすべきか、まだわからないが。あるいはそれを「ディスコミュニケーションの可笑しさ」と言っていいかもしれない。ここで私は坂口安吾を思い浮かべる。ところがそんな藤原の文章が、第二部以降に至ると逆に坂口安吾に批判されるスタンスに回ってしまう。「文学のふるさと」ならぬ「旅行のふるさと」はどこにあるのだろう。

ディスコミュニケーション=迷宮。これはオリエンタリズムと正反対のものであり、愛すべきもの。この話でいえば、見かけは美味しそうだったのに途轍もなく辛かったあげパン。これに象徴される。おまえは黄色いパンツをはいているからアメリカ人だ、というのもそうだ。浜辺で魚とりをしている男に近づくと、それは用便中だったという話も。《だいたいインドの汽車は止まらないでいいところで、むやみやたらと止まるくせがある。それでいて時間どおりに目的地に着くので、どうなっているのかさっぱりわからない》。そうなのだ。どうなっているのかさっぱりわからないのが、海外体験だ。

●ではここを旅するのは誰か。ヒッピーだ。《ところで、ここ数年来、インド人とは反対に、食欲不振にあえいで、それで少し胃腸薬を飲みすぎて、さらに食欲不振におちいった、といったぐあいの、まるで《食欲不振の神様》のようなヒゲモジャが、インド亜大陸に上陸している。いうまでもなくヒッピーである》。《皮肉なことに、……この地で大権力をふるった英国人も、今度はその子孫たちが、カラフルな小鳥のようになって、三々五々やってきている》。《食べるということに関して、彼らはインド人のように偉大な執念は持っておらず、たとえば空らのポケットの片すみに無造作に突っ込まれたドル紙幣は、時を経てルピー紙幣にかえられ》、《そんな生活の中で、彼ら、インドにきたヒッピーたちは、確実に健康を回復しつつある》。そうなのだ。我々はインドで健康になるのだ。これはオリエンタリズムによってインドで悟ったりインドで大人になるのとは正反対なのだ。

●その一方で、こうも言う。《インドと聞けば、腐敗と貧困というのが通り相場だが、いったい、インド人の精神はまるっきり健全であって、ときどき、ぼくはそれをねたましく思ったくらいだ》。この健全とはヒッピーの健康とは違う概念だろうか。いや、ここでは我々とインド人が本当に共振したと解釈してもいいのではないか。そして藤原が日本社会を批判するのも、本当はこうした健全さの欠如をこそ述べているのではないか。

●この軽妙な健康さの代わりに、(旅行記が)病気になってしまったのが第二章だ。どうしてこうなってしまったか。犯人は誰だ。犯人は文体だ。同じ場所を旅して同じ苦労をしているのに、第二章は、笑いのかわりに深刻さ、哄笑のかわりに高尚さに彩られている。藤原のインドを神秘化、思想化したのがこの文体だ。そして、インドを旅行するものの多くが、そのエクリチュールに取り込まれたのではないか。

<第2章>

●この章は旅を終えた3年後に書いたという。すなわち、あるていど体験や経験を考えつつまとめたのだろう。

●カンジスでの火葬と水葬の体験から始まる。火葬、水葬の話。死者の美しさ、生者の醜さ。これが藤原の世界観の基調となっていくのか。《回るということは、中心を作ることであり、また逆に、中心から逃れることでもある》。《そしてそのどちらもが、人が地上に生活する上において正しい運動のように思えた》。そして砂あらしを味わいながらのバス移動、そしてある町での体験。そして次節へ。

「ヒンドゥ」

●ここプシュカールに還って藤原はついに、悟る。いやこういうのを悟りと呼ぶのだ。「インドで悟る」の旅行パターンここに誕生か。それともこれ自体何かの踏襲だったのか。ともあれ、地獄を見て(それはカルカッタかもしれないが)そして悟る。その典型的な流れがここにあるように思う。

●しかし、そのあと藤原は死産を目撃する。さんざん目にしてきた死体だろうが、今度は生まれたままの死を藤原は目撃するのだ。しかし、その子を抱いて泣いていた父親は、子を葬るところりと性格を変えたという。このことを藤原は、インド人の感情がある形式の枠に規定されているというふうに見る。では、その藤原は、日本人の感情がある形式の枠に規定されていることはなぜよしとしないのか。そんな疑問がここで大いにわく。

●気取るな、藤原。若者は東京の停滞にもっと苦しんでいるではないか。

●それにしても、藤原新也は一人旅だ。日本人旅行者は『印度放浪』にまったく出てこない。会わないほど遠くに行っていたのか。これはどういうことなのだろう。現在の旅行者はあまりに日本人に多く出会ってしまう。孤独な作業はもてない。そのことは何か決定的な差を生んでいるのか。

*おしまい!