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【2019 輪廻転生】

★逆光/トマス・ピンチョン

 逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)


再読することにした。いったん読了した上巻の最初から。

「また読まなきゃ」と気になりつつ5年ぶり。とはいえ、私の場合、「また会わなきゃ」と思いつつ5年たってから会った人もいれば、10年たって会っていない人もいるので、驚いてはいけない。

すぐに思ったのは、やっぱり文章の密度というか濃度というか、それが高いということ。書いてある事象をどれだけズームアップしても詳しい内実があり、書いてある事象をどれだけズームアウトしても詳しい背景がある。

それはまるで、「偶然の仲間」の飛行船が、どれだけ上昇しても下降しても、地表を眺めていれば、視野には、そのつどそのつど詳しい光景や模様が広がってくるだろう、ということと似ている。これは以前、乗った飛行機が成田へ旋回しつつ高度をゆっくり落としていくときに外を眺めていて思ったこと。

それにしてもほんの10ページほどのあいだに、「コロンブス記念博覧会」とか「クラカタウ火山」とか、見知らぬ名称が注釈なしにどんどん出てくるが、みんなGoogle検索しながら読むだろうか。

インターネットを探れば情報は無限のように広がっているのを、私たちはもうよく知っている。ところが、『逆光』1冊の文章の内部と外部に埋め込まれている情報のほうは、ひょっとしてそれを上回るんじゃないか、という気がしてくる。

構築された虚構を通じてこそ現実の深さに触れられた時代から、データベース化された現実自体にさらされる時代になった、ということを『母性のディストピア』は見抜いていたが、現実(ネット)VS 虚構(小説)という撤退していく戦いのなかで、私はふと『逆光』逆転勝利を信じたくなる。

ともあれ、そんな大変な物量の本なので、これを確実に読み通すには、なんというか、パタゴニアとかマダガスカルとかなんかそんなところまで旅行に行って帰るくらいの決意と期間と計画が要るだろう。

短くて忙しい生涯に世界の国々すべては旅できない。同じく、世界の小説すべては読めない。少なくとも今年のゴールデンウイークにマダガスカルに行こうと思ったらパタゴニアには行けない。『逆光』を読む人生とは、たとえば『失われた時を求めて』はもう読まない人生かもしれない。

難航が予想される小説を読む続けるただ1つのコツ。ゆっくり読む。ゆっくり移動する。ゆっくり歩く。それは、中国貴州省興義とかへ移動し万峰林とかを眺めるときのコツとたぶん同じ。観光カートで素早く一周もよいが、三泊もして山の1つをぐるっと回ってみたり、じっとしたり、戻ってみたり。

ピンチョンも万峰林のことはグーグル検索するしかないだろう。私は行ってきた!


 *


(4月25日)

トマス・ピンチョン『逆光』再読中。

以前読んだのと同じところに付箋し同じような興味をいだき同じような感想まで書こうとする。反復ばかりで蓄積や進歩がまったくないようだが、いいんだろうか? とはいえ、初回に比べ全体から細部までの内容がくっきりと捉えられる、という実感は強い。

物語は19世紀末から20世紀初頭のアメリカなのだが、それを私は、世界史の教科書1〜2ページのようにぱっとつかむことはまったくなく、どちらかといえば、特徴も焦点もない長い1日や長い1か月をやりすごすようにして読んでいる。

しかし考えてみれば、たとえば20世紀末から21世紀初頭の、たとえば渋谷とは、だいたいどういうものかを、私はどのように把握したのか。それはやっぱり、特徴も焦点もない長い1日や長い1か月をやりすごすようにして暮らすことの反復のなかで、だんだんと把握できてきたのだろう。

もちろん『逆光』は小説であり、むやみに何年もかけて読んでいるとはいえ、生活とは別ものだ。だけど、とりわけこの小説を読むことは、世界史の教科書のページを読むことに比べたら、生活をすることのほうに、けっこう近い感じがするのだ。

それとこの小説には、最新テクノロジーがもたらすキテレツな野心や妄想や謀略といったものが浮上する。当時のそれは電気やダイナマイトや錬金術と差のない写真術などのようだが、それはまるで、I0TだのAIだの仮想通貨だのに世界の真実や社会の革命をうっかり嗅ぎとってしまう私たちにそっくりだ。

ちょっと引用しておこうかな。《最近、マールは「写真」と「錬金術」が同じものに到達するための二つの方法に過ぎない――どちらも不活性な貴金属から光を救い出す作業だ――という奇妙な感覚に襲われていた。そしてひょっとすると、マールとダリーが遠路ここまでやって来たのは無為な放浪の結果ではなく、今までに何年も撮ってきた写真に焼き付けてきたすべての銀が発する秘密の命令によって、重力に引かれるように導かれた結果なのかもしれない。まるで銀が魂と声を持った生き物で、銀が彼のために働いてくれたのと同時に、彼も銀のために働いたかのように。》p.124(木原善彦訳)

それにしても、こんなふうにいちいちツイートしたり感想を書いたりしている間、『逆光』の読書自体は進まない。無駄な反復、無駄な足踏み、無駄な暮らし。

――しかしながら、立ち止まらない、付箋もしない、感想や日記もまったく書き留めない、そんなのは私には想像がつかない人生だ、とも言える。