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【2019 輪廻転生】

魂の重さの量り方


魂の重さの量り方』(レン・フィッシャー著 林一訳) ASIN:4105051210

「科学的ってこういうことさ!」と教えてくれる本でありながら、よせばいいのにもっと藪に踏み込んで「科学的ってどういうことだ?」と迷わせてくれる本。だからこそ読み甲斐がある。

死ぬ瞬間に人の体重がどう変わるかを調べ、魂の重さを確かめる。ときおり話題になるそんな実験が本当にあったという。1901年アメリカのマクドゥーガルという医師の試み。最初は4分の3オンスという結果が出た。新聞記事にもなったそうだ。見出しの一つが「SOUL HAS WEIGHT, PHYSICIAN THINKS」。

ところが著者は、この医師マクドゥーガルを「真に科学的」と評する。なぜか。彼は実験結果から得た「魂に重さがある」という解釈が間違っている可能性を前提にさらに実験を繰り返したからだ。すなわち「反証」こそ科学の名にふさわしいということだろう。それでどうなったかは読んでのお楽しみ。

そしてもうひとつ、「科学的」の形容として本質的だと思える態度がみてとれる。それはこの医師が《もし魂が存在するならば、空間をしめる物質的な物体でなければならない》と確信していたこと。もし魂が存在するなら、他のあらゆる存在物が持つ重さというものを魂もまた持たなくてはならないと。我々は「あらゆる事物を例外なく同一の要素や法則に還元して説明する」ことを科学的としているのだろう。いや現代では「空間をしめる物質的な物体」に還元するだけでは済まなくなってはいるけれど、20世紀初頭には科学理論としてクリアすべき水準はそうした要素や法則にあったのだろう。

著者もまた子供のころこの医師と同じように考えたという。《…魂は見ることも触れることもできない何ものかだと教師に教えられたとき、私の個人的な信念(*魂があるという信念)はぐらつきはじめた。これは私を悩ませた。というのは、私が触れることができず影響しかえすこともできない魂が、どうして私に触れて影響することができるのか、理解できなかったからである》。

今年の正月、いい年をした男女がショッピングセンターの隅っこで安いお茶を飲みながら、江原啓之のいう守護霊や輪廻は実在するのかと延々議論した。そのとき、「あるとおもう」「あってもいいとおもう」という意見に対し、「あっていいとはおもわない」という私が漠然と感じていたことも、たぶんそれに近い。私は「科学の基準になっている要素や法則に合致しないような事物は今のところこの世で一つも見つかっていない」と考えている。それに対して江原さんや細木さんの世界像を信じる人は、科学に合致する大半の事物と、科学に合致しないごく少数の事物(守護霊や輪廻)の、2種類によって世界は出来ていると考えるのだろう。だとしたら、世界の解釈としては私の説明のほうがシンプルだ。そして、それが良いか悪いかはべつにして、そういうシンプルな立場のほうをふつう「科学的」と呼ぶのだ。

要するに、科学的かどうかとは魂の実在を信じるか信じないかではない。自分が信じていること(たとえば魂は実在する)と、他に同じように信じていること(たとえば心臓が・空気が・引力が実在する)とが、整合性をもつかどうかが気になって仕方ないかどうかの違いなのだろう。

しかしこれは「科学的」の定義にすぎない。したがって「科学的であれ」といくら説得したって「科学的でなくていい」と思っている人を仲間にはできない。それどころか、魂や守護霊や輪廻を想定して生活している人たちは、むしろ「科学的であってはいけない」と感じている場合もしばしばだろう。

ここまでは「科学的!」の話。ここからが「科学的?」の話。

同書の第一章「魂の重さを量る」は、マクドゥーガル医師の実験を上記のように紹介するだけで終わらず、かなり込み入った展開になる。

著者は、科学史において魂に似た曲折を辿ったものとして「熱」に注目する。熱とはなんらかの物体であって重さを持つに違いないと過去には考えられたというのだ。だから、水を凍らせて重さの変化を量る実験も行われた。しかし今では熱は「エネルギー」の一種とみなされる、さらには、光も電気も運動や物質すらもみな「エネルギー」の異なる形態だと著者は解説する。ところがその「エネルギー」というものが、まるで魂のごとく実体をもたないのだ。

《…自然の現実はわれわれの直接的な感覚経験を超えており、熱は「エネルギー」の一形態にすぎず、魂に似た不思議な実質のない実体であって、われわれには触れることも見ることも感じることもできず、ただその異なるあらわれを経験するだけなのだ…》

同章の込み入った展開、もうひとつ。真に科学的と形容すべき「事実に対する信念の検証」は、しばしば重さの正確な測定を含んでいると著者は指摘する。なるほどなあと思う。しかしさらに、とはいうもののその重さ(重力または質量)というものの正体は、そもそも現在までの科学ではまったく分かっていないのですよと言うのだ。

重さの正体が分からないとは、こういうことだろう。地球の重力に引かれてリンゴが落ちる。太陽の重力に引かれて地球が公転する。それを物理学者は疑わない。私も江原さんも疑わない。しかしよく考えてみると、地球と太陽はひもで結ばれているわけではない。粘っこい媒質が間を埋めているわけでもない。それなのに重力は、ひもも送電線も大気もないのに何故かどこまでも伝わることになっている。同じくテレビや携帯の電波だって何の物質も媒介せずに伝わる。それがどういうカラクリか、私がよく分かっていないように、物理学者もはっきりとは分からないみたいなのだ。そこで出てくるのが「遠隔作用」や「場」といった概念。「ヒッグスホゾン」という名前だけあって実物は誰も知らないおかしな粒子も想定される。

これら「エネルギー」や「遠隔作用」「場」といったものを、著者は「反常識的な信念」と呼ぶ。科学理論はそうした常識や直感にまるで合わない奇妙な存在を想定して初めて成り立つというわけだ。

《実験結果を説明する努力の中で科学者が到達したのは、永遠にわれわれの直接体験の範囲の外にある存在や効果が実在するという信念だった。たとえばわれわれは、熱や光や電波や運動が(さらには庭を掘るときに行う仕事も)いずれもエネルギーの一形態であると信じている。われわれはだれ一人エネルギーを直接的に経験したことはないが、さまざまなあらわれとしてその実在を知ることはできる。(…)そしてわれわれはすべての物質が、小さすぎて見ることも感じることもできない原子という存在からできているとも信じている》。

たとえば自分が幸福になったり成功したりする理由を、守護霊の存在と作用を想定して初めて納得する人がいる。それはふつう非科学的と言われる。しかし科学的と胸を張る理論だって似ていなくもないわけだ。リンゴが落ちることや携帯が通じることの理由が、「ヒッグスボソン」とか「遠隔作用」とかいう、守護霊に負けないくらい奇妙なものを前提にしてやっと納得できる、とも言えるのだから。

では、ヒッグスボソンと守護霊に違いはないのか? たぶんヒッグスボソンは、リンゴの落下であれ携帯の電波であれ核兵器の爆発であれ、あらゆる物理現象と整合性をもつよう苦心して苦心して編み出された理論なのだろう。守護霊はというと、それらとはあまり整合しない理論であるか、もしくはそもそも理論を持たないかのどちらかだろう。とはいえ、「一貫した理論がない=科学的でない」からといってダメだとは思わない人は「だから何?」という顔をするにちがいない、ということをすでに上に書いた。まあ私は守護霊に詳しくないけれどヒッグスボソンにも詳しくないので、正しくは江原さんやフィッシャーさんに聞いてほしい。

…いや、私の正直な気持ちを言うなら、守護霊や輪廻と呼ばれる現象は私が分かる程度の科学理論で説明がつくように思うのだ。しかし重力やエネルギーの方は科学理論として理解することが本当に難しい。ビッグバンなんかもそうだ。宇宙の果てとか外とかも典型的に分からない。池田清彦もビッグバン理論は「オカルトみたいな神秘」とか言っている。もっといえば「意識」なんていう現象や「この世が無いのでなくて有るのは何故か」なんていう疑問は、科学理論でどうやったら解決できるのか途方にくれてしまう。科学で分からないことは確かにいっぱいある。


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ちょっと補足。「遠隔作用」や「場」は主に重力の説明に要する概念。「ヒッグスボソン」は質量を担うとされる仮想粒子。重力を担うとされる「グラビトン」とは別。(よく知りませんが)