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【2019 輪廻転生】

経典というテクスト〜外部不在

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『世界哲学史2』(ちくま新書) に大乗仏教の章がある。知識も関心も薄い領域だけど概観できればいいかと読み始めたら、どうもおかしい。なぜか「テクスト」が焦点になる。それまで口伝でしかなかった経典をテクストとして出現させたのが大乗仏教なのだという。……なんか匂う。デリダ臭。

そしたら本当にデリダの言語観を踏まえた展開になっていく。

《大乗経典の編纂者たちにとって、仏のことばが出現する経典は、すでに顕在化して過去となったことばの意味の容器なのではない。それは「初期経典」がなすように、すでに存在したものを再掲するのではなく、いまだ現れたことのない、「どこにも現前しないテクスト」を提示する》

《このテクスト(※大乗仏教の経典)は、仏教が、釈迦にはじまる歴史現象となった過程そのものを問いの対象としている》

奇妙にして難解なのはデリダだから仕方ない。しかし、仏教の経典もつまりテクストなんだと思い直すことは、重要だろう。テクストの読み書きとは、過去や外部のものごとの発掘や代理ではない。現在進行形の何かがそのつど出現してくる。仏教も大乗仏教も仏教研究も。ツイッターも(?)

 

ところでこうした場合は「テキスト」ではなく「テクスト」と呼ぶ習わしであるようなのは、面白い。ピザと言わずピッツァと言うようなものか。

 

それはそれとして、同章はもう1つ決定的なことを指摘している。人がテクストを読んで考えていることは、あくまでそのテクストとその人との間にあるのであり、<それがテクストの外部の世界にあるなんて思うなよ!>という警句だ。

すなわち――《経典の言説というシニフィアンと、読者のうちに喚起される意味印象というシニフィエのほかに、外部に実在するものごとというレファランを求めるのである》――でもそれは錯覚だという。

《ここには経典の言説外部にあったはずの「事実」を根拠として経典の作者によって言説が生み出され、さらにその言説によって研究者の意識のうちに表象が生まれたとの理解がある》(でもそれは錯覚)

 

デリダ自体も引用される。難解ついでにそれも書いておこう。

差延が起源的だということは、同時に、現前する起源という神話を消し去ることである。だからこそ、「起源的」ということは抹消しながら理解しなければならない。(略)起源的なものとは、非-起源なのである」エクリチュールと差異)

 

いや〜デリダってやっぱり実に難しいことばかり言ってたみたいだな〜と久しぶりに苦笑したが、それはつまり、実に気付くのが難しいことばかりをデリダは言っているからだ。それに他ならない。<テクストを読む>とき、それぐらい奇妙で微妙なことを私たちはしている、ということだろう。

 

さてしかし、人が言葉に触れるとき、それは現実に触れているわけではないよな〜とは、私なりにぼんやり気が付いてはいた。何の例を出したらいいだろう。

本に書かれているのはことごとく言葉でしかなく、私の頭のなかで巻き起こることも、結局ことごとく言葉に置き換えるしかない。すべてに当てはまるなら、わざわざ例をあげるのは、かえっておかしい感じもする。

しかしあえて例を出すと―― 中学生ぐらいのころ社会科の世界地図に記された「ウランバートル」という地名を読んでいるときの私の頭の中を思い出すといいかもしれない。いやそんな昔の聞き慣れない地名でなくても、昨夜聞いた「梨泰院」という地名だって本当はそうなんじゃないか。

涅槃も菩薩も彼岸も、どこにあるのでもなく私たちの言葉の世界にあるのだろう。「道徳」や「差別」や「愛国」すらもそうかもしれない。「電子」や「量子もつれ」はどうなんだ? 神も実在しないが「神」という言葉は大昔から実在する。…いやよくわからない。また考えがぼんやりしてきた。

 

*だいぶ前だが、似たようなことを考えた(以下)

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