《理解できないまま全文を読みきることが理解に至る必須の条件なのである》
不思議だが実際その通りで、でもその通りだがやっぱり不思議で… そこを「それでいいんだ、それしかないんだ」という励ましの書か。信原幸弘さんは認知の謎を常に客観的に説明してきた。読もう。
見事な要約にも感謝!
https://twitter.com/freakscafe/status/1608263303696101376
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(1月31日)
たとえば《物事の理解は知識の獲得である。知識には命題知と技能知がある。命題知は言葉だけで獲得できる》ーーちょっとちょっとそう単純に言い切っていいの? そこをまさに単純によどみなく言い切るのが、この著者。
しかしそうなると、う〜む、今さらながら、たとえばデリダとかソシュールとか、無理に勉強なんかしなくてよかったんじゃないか……(たいして勉強しなかったにしても)
《梅が咲いていることを知るというのは、梅が咲いているという事態を「梅が咲いている」という命題で表して、それが正しいということを知ることである》
――つまり、たとえばこうした構図自体を、やけに難しく扱って反抗してみる必要はないんじゃないか、と。『論考』もそんな感じだし。(とはいえ…
(2月28日)
ちくまプリマー『「覚える」と「わかる」――知の仕組みとその可能性』(信原幸弘著)について、改めてメモしたい。
昔読んだ信原さんの本『考える脳・考えない脳』がとても面白かった。<思考の骨格とも言うべき論理や数式を、私たちは自在に操っているが、それら(論理や数式)は脳の内部ではなくむしろ脳の外部にある>みたいなことが書いてあったからだ。
『考える脳・考えない脳――心と知識の哲学』(信原 幸弘):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部
しかし今回の『「覚える」と「わかる」』では、私たちの思考と情動の強いつながりに焦点が当たっていた。かなり意外だったが、このテーマ(思考と情動の関係)について、最短の記述でさっと納得できた感が大きい。
「クオリア」という用語もこだわりなく使っている。すなわち<物事の理解にはクオリアが伴う>と。「貧乏」の理解にも「貧乏のクオリア」がベースだよねと。
――似たことを私なりに気がついた経緯があったので、信原さんという研究者にはやはり親近感を隠せない。
もう1つそのころの私の考え:
「感情にはクオリアが伴うが、思考にも実はクオリアが伴うのではないか」
さらについでに、『考える脳・考えない脳』を読んだときの感想。
http://www.mayq.net/junky17.html#001226
2000年。認知とか言語とかそんなことばかり長く考えてきたものだ。われながら感慨深い。
本の話をするつもりが昔話になってしまった。続きはまた。