東京永久観光

【2019 輪廻転生】

街の意味はあまり読み書きしない



新宿や渋谷の界隈をときどき自転車で行ったり来たりする。そうすると、山手通りや明治通りはどうつながっているのか、代々木公園や国立競技場はどこにあるのかなど、さまざまな位置や距離や関係が、実感として初めてわかってくる。

これはつまり、「渋谷」や「新宿」という概念が新しく詳しく組み上がっているということだろう。「新宿」や「渋谷」という言葉の意味が組み上がっていると言ってもいい。

しかしこの場合、「新宿」や「渋谷」の概念や意味は、言語によってではなく自転車によって得られたわけだが、それだけでなく、いちいち言語に置き換えられることも通常はない。「山手通りは南下するほうが下りなので楽」とか「炎天下の代々木公園では西洋人たちがそろいもそろって肌をさらしている」とか、たとえばこうした概念や意味の一部ですら、今わざわざブログに書いたから言語化されただけだ。

私にとってこれと対照的なのは、たとえば「連合赤軍」や「オウム」といった言葉だ。先日は大澤・北田の対談本を読んで「連合赤軍」や「オウム」の概念や意味がけっこう刷新された。では、そのとき新たに組み上げられた「連合赤軍」や「オウム」の概念や意味は、何から生じたのか、また何に成ったのか。すべては、大澤・北田が述べていた言語から生じ、そしてまた私なりの言語に成ったと言うべきだろう。

この世の事象を認識するための要領は、言語がすべて支配していると感じるときと、まったく逆に、言語はほんの一部しか支配できないと感じるときと、両方がある。

だから何だ?  

(1) たとえば「自民党」や「民主党」のイメージを、私たちは言語と言語以外のどちらを主に使って構築しているだろうか。「台湾」や「韓国」や「中国」のイメージはどうだろうか。

(2) Twitterは、なんでもかんでも言語化してしまうので、ちょっと凄いのではないかと思うのだが、太古の人類が思ったことをなんでもかんでも口にできるようになった時=つまり言語が誕生した時と、どこか似ているのだろうか。