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【2019 輪廻転生】

★仏教思想のゼロポイント/魚川裕司

魚川裕司『仏教思想のゼロポイント』(2015)という本を読んだ。ブッダが達したあるいは説いた仏教の核心というものを、一人が書く一冊の本としては、おそらく最適な言葉で完全に整理してある。ほかに仏教の解説本をほぼ読んでいない私だが、「仏教? もう全部わかった」と言いたくなっている。

「仏教の核心? 悟りってこと?」と私のような素人は思うわけだが、玄人としても結局そうなのだということが、入口としてもとてもよく理解でき、出口としてもとてもよく理解できた。

しかも著者は、悟りというもの(玄人的には解脱・涅槃)が、個人に起こる明白な体験であると、断言している。きわめて貴重な証言と受け取めた。

ただし、悟りという体験は言語化が不可能であることも、いわば原理として示している。なんとなく予想されたことだが、落胆よりむしろ興奮を覚えたのは不思議。そもそも「言語化できないものがある」こと自体を私は内心ちょっと疑っているので、そうした根本的なチャレンジに思いが到ったからだろう。

ともあれ、著者には「思考編・理論編」のこの本に続き「体験編・実践編」が期待される。

 

「悟りという体験は言葉では語りえない」というのが同書の原理的立場だと言った。しかし「悟りとは何か」の外形的・概念的なところは、言葉をかぎりなく尽くして伝えようとしていると感じられる。さまざまな表現が出てくるが、私なりにまとめれば「世界像の相転移」ということになろうか。

ブッダによれば、煩悩にとらわれた衆生にとって、生きることのすべては苦でしかなく、受けとめている世界はことごとく仮のものだ。悟りとはそこからの完全な解放だから、生も世界も激変あるいは消滅することになろう。これまでの認識は100%仮だった嘘だったという実感が訪れることになろう。

 

なお、この本でもう1つ凝視すべきは、仏教は「人間として正しく生きる道を説くものではない」と冒頭から述べていること。そうではなくてむしろ――

《現代風にわかりやすく表現すれば、要するにゴータマ・ブッダは、修行者たちに対して「異性とは目も合わせないニートになれ」と求めているわけで、そうしたあり方のことを「人間として正しく生きる道」であると考える現代日本人は、控え目に言っても、さほど多くはないだろう(…)》

『仏教思想のゼロポイント』の著者は、ツイッターに「ニー仏」の名で登場する方であることが、とうぜん思い起こされる。

 

さて再び、「悟り」とはいかなる体験か。同書は比喩としてはいろいろ示している。たとえば――

「それはまるで、重い荷物を運んでいて、それを下ろしたようなものです! あるいは何かとても重いものを引っ張っていて、ロープがプツンと切れたようなもの!」(ウ・ジョーティカ) あるいは、麻薬中毒者が薬の影響から脱した後に「麻薬にいいことは何もないな」と心から実感するようなもの。

そのような説明を受けつつ、浮かび上がってくる疑問は、「悟り」は明白な体験だというが、それは、目が全く見えなかった人がある日とつぜん目が見えるようになった、そんな体験と同じく明白なのか? ということだ。

いや、そこまで明白なわけはないだろうとも内心では思っている。たとえば風邪を引いている日と風邪が治りつつある日の違い程度には曖昧なのではないか。うつや不安に落ち込んでいる日とうつや不安が和らぎつつある日との違い程度には曖昧なのではないか。

さらに、悟りは仙人や超人だけが体験するのではなく、一般の人間が一般の人生でも体験可能ということなら、さしずめ、多感な少年少女の初めての性的な行為や感触が心身にもたらす衝撃に似ているのではないか。いや実際のところ、悟りの体験には性的な体験がなんらか含まれているのではないか。

それをめぐって古い話になるが、1980年代か、糸井重里は「自由に夢精ができるといいのに」という主旨のことを何かに書いていた。北方謙三が青年の悩み相談にやたら「ソープに行け!」と回答したという伝説もあった。

しかし、もっと上品で高尚な私は別の比喩に思い当たる。

悟りとは世界像の相転移かもと書いた。それは、ニュートンが思い描いた絶対的な空間と時間の座標から成る世界像から、アインシュタインが思い描いた時間と空間が常にに伸縮しつつ絡み合う世界像への転換。それと同じようなものではないか。

おまえは目の前の風景が相対性理論に従って伸び縮みしているのか? と問われるだろうが、そうした感触の相転移は不可能ではないと私は思っている。人間というのは馬鹿だけど偉大でもあり、頭であれこれ考えたり体であれこれ試したりするうちに、実にいろいろ奇矯な世界像をこしらえてしまう。