『現代思想入門』(千葉雅也/講談社現代新書)は、あっけないほどみごとにわかりやすい!――多くの人が口をそろえる通り。
やはりそれを「脱構築」とくくり、デリダを「概念の脱構築」、ドゥルーズを「存在の脱構築」、フーコーを「社会の脱構築」と、スパッとともあれ言い切られ、ああっと思う。
それはもうあまりにそのとおりで、しかもなんだか20年も30年も前から自分がそのとおりスパッと理解していたかのようにマジに思い込めてくるのが恐ろしい。
だがそれは歴史修正であり私は今回やっと現代思想に入門した。30年もたって初めて入門とは情けないが、入門してもう卒業したぐらいの充実感。
少し思い出を語れば――
現代思想たるフランスのポスト構造主義というものを、私も80年代中ごろから大いに意識し少しは読できた。なにしろそれは当時流行し誰も彼もが感染したのだ。パンデミックだ。発症して長い後遺症に陥った人は多く、凡人もこぞって風邪ぐらいは引いた。今となればそう見える。
筑紫哲也が編集長になったばかりの朝日ジャーナルを、浅田彰が「若者たちの神々」第一弾として飾った。もう誰も知らず教科書にのるかも微妙な現代史なのは寂しいが、とにかくその雑誌を私は町の本屋で買った。懐かしの84年。浅田の『構造と力』が難解さにめげず(ウイルスのごとく)蔓延した。
さて、著者は正真正銘の哲学者だと思うが、同時にいわば哲学の先生たる役割の自覚も芽生え、「諦め」のような境地で入門書を示し、自身のポスト構造主義にもカタをつけた、といったことのようだ。そしてもう1つ重要なモチーフが示唆されている。
ものごとの二項対立を、脱構築と称して、微笑ましくも すらりすらり のらりくらり避けてきた時代は、良くも悪くも過去となり、昨今では、白と黒、善と悪を驚くほど容赦なく分断した言説ばかりが目立つ。そのことを著者は強く嘆いていると思われる。同書からも日々のツイートからもそれはわかる。
すべてが相対的だというわけではないし、ポスト構造主義が単純な相対主義というわけでもないけれど、ほんの少し前までは白黒つけるのを嫌うことこそが、知性の証・勉強の証・難しげな文化の証だったじゃないか! なんだよみんな早くもすっかり忘れたの? といった感じだ。
なお『現代思想入門』(千葉雅也)は、ポスト構造主義の前後も整理している。これまたベストエフォート! と思う。「ポスト構造主義」後では、メイヤスーはやはり重要項。著者が訳し私も相当頑張って読んだ『有限性の後で』(中断中)を、改めて思い起こす。
*
(3月21日)
僕はツイートでときどきつまらない感情を出す。あの曲が好きだとか嫌いだとか。あのちょっとしたマナーが気に入らないとか。それは、大きな共感を商品化する運動への抵抗としての、小さな感情である。カスみたいなものだ。それが批判されることがある。大きな共感でエコノミーを形成する側に、である。
— 千葉雅也『現代思想入門』発売 (@masayachiba) 2022年3月20日
この水の音が『現代思想入門』の底の底を静かに流れていると思う。
*
(4月16日)
『現代思想入門』(千葉雅也)をめぐってもう一言――
私はポスト構造主義は流行に合わせて面白いと思っただけだったのに対し、新しい実在論の1つメイヤスーは、さして流行してはいないものの、私には思いがけず自分の最大の関心事に直結していると感じ、驚きとともに真面目に向き合っている。
最大の関心事というのは、相変わらず繰り返すが「なぜ世界には何もないのではなく、何かがあるのか」。その変奏は「私も君も死んだら終わりで、ホントに何の意味もなさそうだが、ホントにそれでいいのか」
メイヤスーの信念を、同書はたとえば次のようにまとめる。
《人間の解釈に左右されないただ端的に同一的に存在している物自体としての実在》《その意味を人間がどう考えるかとまったく無関係に、ただそうあるようにある存在》
《それはまったく無意味にただあるだけであって、なぜそのように存在しているかという理由がまったくないもの、ということになる》
――私としては問いを諦めるしかない。
ただメイヤスーはさらに奇妙なことを言う。
《絶対的な実在は絶対的であるからこそ偶然的であり、ならば、そのままのあり方で存在し続ける必要はない。端的な実在は、ただの偶然で、いつでもまったく別ものに変化するかもしれない》(ここまでp.190)
「絶対的であるからこそ偶然的」というのは理屈に合わない感じだが、しかしまあ、私なり君なりが生まれてきて感じたり考えたり動いたりしているこのリアルさもまた、あまりにも絶対的でありながら、あまりにも偶然的であろう。世界が根幹からそうした様相だとしても、受け入れるしかない。
ダメ押し――《この世界がこうであるということに必然性があるなら、世界には隠された存在理由があることになりますが、それをメイヤスーは消去し、完全に乾き切った「ただあるだけ」のこの世界を捉えるのです。そしてそれこそが自然科学的世界象を根本的に正当化する哲学的態度である、と考える》