東京永久観光

【2019 輪廻転生】

2009年5月・6月・7月の読書本(2冊追加)



旅する力 深夜特急ノート/沢木耕太郎 asin:4103275138

旅行の意味を私は疑ったことがない。なにゆえ旅するのか。そんな問いは生まれようがない。あるいは答は最初から私の中にある。「旅を間違える」などということはありえない気がするのだ。

これが小説の意味となるとときに悩む。たとえば『1Q84』は面白かったが、『海辺のカフカ』などは「何のつもりでこういう小説を書いたのだろう」「私も何のつもりで読んでいるのだろう」といった迷いも渦巻いた。だから小説だけでなく評論もたまには参照せざるをえない。(ただし、小説がつまらない人には小説についての本もきっと同じくつまらない。ましてこれが仕事の意味となると…。仕事についての本もまた激しく……)

一方、旅行が楽しい人には旅行記も無条件に楽しい。べつに「旅とはいったい何か」「いかに旅すべきなのか」を探して読むのではない。単に共感したくて読む。というわけで、旅行について書かれた『深夜特急』は旅行と同じく面白かったし、『深夜特急』をめぐって二十余年後に書かれたこの本もただ面白い。それでも、結果的に見いだされた旅の真相みたいなことにうなずくところもあった。たとえば――

…あの当時の私には、未経験という財産つきの若さがあったということなのだろう。もちろん経験は大きな財産だが、未経験もとても重要な財産なのだ。本来、未経験は負の要素だが、旅においては大きな財産になり得る。なぜなら、未経験ということ、経験していないということは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということであるからだ》(「旅には適齢期というものがあるのかもしれない」)

どうしても行かなくてはならないのだろうか。別に行かなくてもいいのではないか。行かなくてもいい理由をいくつも数え上げるのだが、どれも決定的な理由ではない。そうこうしているうちに行くと決めていた日が近づいてきて、仕方なく出発するのだ。
 ――参ったなあ
 内心そう思ったりするが、誰を恨むでもなく、行くと決めた自分の、いわば自業自得なのだ。しかし、ひとたび出発してしまうと、それまでの逡巡は忘れてしまい、まっしぐらに旅の中に入っていってしまう》(「あとがき」)

さて、かねてより『深夜特急』は自立格安旅行者のまさに聖典だったが、もうひとつ『地球の歩き方』もたしかに聖典だった。こちらのエントリーが痛いところを突いている(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090710

しかしながら、旅行も人生も小説も「そもそも誰かを何かをなぞることなのかもね」ということも、私は『深夜特急』を読み実際にアジアを旅行して思った。その旅行中、柄谷行人『探究1』や蓮實重彦『小説から遠く離れて』を読んでいことも影響したかもしれない。

沢木耕太郎深夜特急』は誰の記憶か http://www.mayq.net/sinnyatokkyuu.html

◎これもちょっと関連 → 小林紀晴の「東京装置」http://www.mayq.net/souti.html

◎ほか、お薦め旅行記
 印度放浪/藤原新也 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060707#p1
 最後のアジアパー伝/鴨志田穣西原理恵子 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20041110#p1
 清国・日本/シュリーマン http://www.mayq.net/junky0302.html#23

ちなみに、長い旅行となると仕事のほうの意味からは無傷ですまないところがある。そういうことでいえば、『深夜特急』や藤原新也小林紀晴蔵前仁一らの旅行記は、私にとって人生のほうのルートも実際に少し変えた。


貧困旅行記つげ義春 asin:4101328129

それは昭和四十三年の初秋だった。行先は九州。住みつくつもりで九州を選んだのは、そこに私の結婚相手の女性がいたからだ。といっても私はこの女性と一面識もなかった。二、三度手紙のやりとりをしただけの、分かっているのは彼女は私のマンガのファンで、最近離婚をし、産婦人科の看護婦をしているということだけだった。

「どんな人かなァ」と私は想像してみた。

「ひどいブスだったら困るけど、少しくらいなら我慢しよう」と思った。とにかく結婚してしまえば、それが私を九州に拘束する理由になると考えたのだった。そしてマンガをやめ、適当な職業をみつけ、遠い九州でひっそり暮らそうと考えた。「離婚をした女なら気がらくだ」彼女はきっと結婚してくれるだろうと私は一人決めしていた》(「蒸発旅日記」)

デリーからロンドンまで乗り合いバスだけで行けるかと友人と賭けをして旅立ったのが沢木耕太郎で、それは無数の追随者を生んだわけだが、家を出る理由には上のような動機や要領もある。しかしこんな真似をする人は つげ義春以外には滅多にいないだろう。真に唖然とすべき旅行記はこちらなのかもしれない。

追記:こんな望みも述べている。

山奥でひっそり独居することをこの数年来夢想していて、近ごろ旅に出ると隠棲するにふさわしい場所探しもついでのそれとなくしてみたりしている。

 一昨年の秋、山梨県の東のはずれ、最も東京に近い秋山村の富岡という所へ二度行った。二度ともついでに寄っただけなので泊まることはしなかったが、そこの景色をみて同行者は、「凄い所ですね、これは日本のチベットですよ」と驚いていた。チベットは大仰にしても、山ばかりの山梨県に住んでいる同行者がそう云うほど秘境じみて暗く淋しい印象で、私はこういう所こそこもって棲むのにふさわしいのではないかと思った》(「秋山村逃亡行」)


無能の人 日の戯れ/つげ義春 asin:4101328137

こういう漫画を描く人もまた つげ義春以外には思い浮かばない。


自死という生き方/須原一秀

 → http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090703#p1


高学歴男性におくる 弱腰矯正読本―男の解放と変性意識/須原一asin:4794804733

自死という生き方』と同じ須原一秀の著書。この人は、流行の波あるいは学問の型といったものは気にしないのだろう。婉曲とか衒学とか余計な嗜好もないのだろう。自らが最も大事だと実感するテーマについて熟考し解明したことを、なりふりかまわぬ物言いで示した。そんな一冊だと感じられる。タイトルも高校の文化祭みたいに純真。そうしたおかげか、鮮やかで奇妙な花が全編にわたって咲き乱れる。


がんと闘った科学者の記録/戸塚洋二 asin:4163709002

もとになった著者のブログを読んだ。→ http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090704#p1


犀の角たち/佐々木閑 asin:480433064X

仏教と科学はどちらも宇宙の真理を探求しています、と著者は言うのだが、その手の話は人を煙に巻くインチキであることもしばしばだ。ところがこの本はむしろ、その怪しい立場を《科学を汚染し仏教を冒涜する怪しい神秘論》と断じている。《一時、思想界に病毒をまき散らしたニューサイエンスはその典型であるし、今でも、引退した科学者がひまつぶしに仏教をかじる場合など、大方こういった方向に進みやすい》と。

こうなると期待は高まる。科学と仏教のいったいどのあたりに著者は真価を感じているのか。

はたして、同書が半分以上のページを費やして説いているのは、「物理学」「進化論」「数学」だ。私は科学に詳しくはないが興味はあり、そうしたまあ一般の読者からみて、その内容はごく標準的なものに思われる。しかし科学を「物理学」「進化論」「数学」の3つに絞ったのは、とてもいい線いっている気がしたうえに、具体的な題材として「ニュートンから相対性理論量子力学に至った物理学」や「無限や証明をめぐって謎の解けなさのほうが明らかになった数学」を選んでいるところにも、科学の深さや面白さといったらやっぱりこのへんだね、という強い共感を覚えた。

そのあと仏教と釈迦に関する要点が示される。科学のパートで仲間意識のような信頼感が芽生えたわけだが、仏教のパートにおける著者の目の付けどころも、それを裏切ることはまったくなかった。こちらもごく基本の知識なのだろうが、仏教については科学よりもっと詳しくないので、とりあえず勉強にもなった。

さて、仏教と科学はどう似ているのか。実はあまり詳しい結論はないのだが、ともあれ、著者が仏教と科学に対してそっくり同じような敬意をかぎりなく切実に抱いていることだけは明瞭になる。

宇宙の真理とは何のことか。それを探求する目的は何なのか。釈迦はどういうつもりだったのか。科学者はどういうつもりなのか。仏教と科学が似ているなんて、そもそもやっぱり錯覚ということはないのか。大きな問いは宿題のままだが、こうした問いを真正面から問う人が少なくとも一人いることが、心強い。

なおこの本は、戸塚洋二さんがブログで何度も言及していて、読もうと思った。

(ちょっと引用)《仏教と科学の違いは、仏教とキリスト教の違いよりも小さい。科学の人間化を一本のベクトルとした場合、出発点にはキリスト教をはじめとした一神教世界があり、反対側の到達点に仏教がある》 かなり大胆!


 *続く


歴史の〈はじまり〉/大澤真幸北田暁大 asin:4903500098

連合赤軍とは、オウムとは、9・11とは何だったのか。あるいは今どきのナショナリズムとは、左翼たたきとは、原理主義とは。2人の考察は毎度ながら控えめでまわりくどい。しかしそれは、現代社会の紡いでいる糸が、そして自らを縛ったり操ったりしている糸が、それくらい慎重に丁寧にやらないと解きほぐせないせいだろう。だから読む方も辛抱強く付いていかねばならない。しかしその甲斐は必ずある。「そうか、なるほど!」 相当すっきりした構図に行き着く。2人ともダテに難しく言っているわけではないのだと敬意を感じる。

この本がもうひとつ独自に素晴らしいのは、「なるほど」とうなずくたび、見いだされたその文言が、まるでそのまま小見出しとして切り取られていることだ。いずれも3行の文で見開き2ページごとに地味に差し挟まれる。この気持ちよさは格別。実地に確かめるべし。

二つの事件は客観的なアホらしさと事の大きさの点でよく似ている》(連合赤軍、オウム)

共産主義化の地平では…」これは「ポア」よりはるかにわかりにくいマジックワードです》(連合赤軍

オウムの信仰はアイロニカルな距離化によってこそ支えられていた》(オウム) *アイロニカルとは冗談のつもりで本気になるようなこと

むき出しの他者性を前に多くの左派知識人たちが立ちすくんでいた》(9・11)

原理主義のリーダーになるような人は都市化されたヨーロッパ的な教養を身につけた人です》(原理主義

左翼は長いあいだ少し反動的な敵たちに対して自分たちについて来られない者たちという図式で考えてきた》(左翼問題)

普遍性をあからさまに拒否できる記号として「国民」や「民族」という表象があるのではないか》(ナショナリズム

ナショナリズムは過剰な自己責任を免除してくれると同時に一定の自己承認、自己肯定を保証してくれる》(同)

われわれはまだナショナル・ヒストリー以上の歴史の記述のスタイルを見出していない》(同)

リゾームにはツリーとは異なったあるいはツリー以上の閉塞感がある》(困った事態)

それにしても、21世紀とは理論や思想においてすら先行きの見通しが本当に無いのだ。目指すべき未来のモデルが世界のどこにも無い。そのことが結局じわりと実感されてくる。


1Q84村上春樹 asin:4103534222

連合赤軍とは何だったのか、オウムとは何だったのか。「歴史の〈はじまり〉」は一つ回答を試みた。『1Q84』もまた、いかにも連合赤軍やオウムや原理主義などの出来事をめぐって何かを真摯に問いかけていると思わせる。実際そのように評されている。「両書は、同じ日本社会の重大問題を強い関心で見つめ、一方は社会学の理論として、一方は文学の物語として、探ったのです」。そう書けばきれいにまとまる。

しかし実際『1Q84』には『歴史の〈はじまり〉』のような言明があるわけではない。読んでいる最中の爽快感や納得感も当然のことながら違った感触だ。青豆や天吾の台詞も学者の弁のような次元では受けとめないほうがいいのだろう。

では私たちは、私たちの社会をよりよく見つめるために、たとえば『『歴史の〈はじまり〉』だけ読んでいれば十分で、『1Q84』などはべつに読まなくてもいいのだろうか。(あるいは逆だろうか)

私にはわからない。小説は探求する手だてや納得の手だてが社会学とは別なのだとは思う。あたかも仏教と科学が似ているような異なるような営為であるがごとく。科学や社会学は反証や議論が有用なのに対しても、仏教や小説の本領はそうしたところにはなさそうだ。しかしそうすると、最悪の場合、「王様の見えない衣装」を国民が闇雲に褒めちぎるという恐れも、小説である『1Q84』にはあるのではないか。

1Q84』が裸の王様かどうかは、村上春樹がどれほど丁寧に慎重にこの社会を眺めてきたかにかかっているだろう。たとえば大澤真幸北田暁大と同等の辛抱強さをもって考え続けている人なのかどうか。私は村上春樹はなにごとにおいても相当辛抱強い人だと思う。

◎他にも少しずつ関連
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090528#p1
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090530#p1
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090617#p1