東京永久観光

【2019 輪廻転生】

黒澤明の望遠カメラ

これ面白い。

https://twitter.com/kobakin1967/status/1256954221858942976

宮崎駿のクレーンアップは凄い!/オープニングの丘を駆け上がるコナンとラナ/カメラは足元の地面を這うように移動しているので、本来背景(画面奥の海や島)は下方向に引くべきなのに逆に上に引っ張っているのだ》

 

上記に触発されて…(以下)

 

カメラは上昇しつつ、走る2人と同スピードで後退もしている、という体かな。

人物への角度も徐々に上になるはず。でもそこはあえてスルーか。最後はカメラの下ではなくカメラの横を通り抜ける。

それにしても、2人の手足の動きはもとより一度向き合う動き、そして鳥の3次元の動き。面白い!

物の動きというのは、映画のカメラの誕生によって客観的に知覚され探求も始まったのだろうと思う。しかし宮崎駿などは、自らの想像力でカメラを上回るような動きをアニメとして現出させたと言えるのかもしれない。そして今またドローンなどが人間の想像力を凌駕し、動きの知覚を塗り替えている。

 

カメラによる知覚の変容という話なら、先日は自粛要請に反して吉祥寺などの商店街では人出が多いというニュースがあり、でもあれは望遠カメラのマジックだろうと疑われた。そのころ私は喜んで自粛しつつ、黒澤明の映画をオンデマンドで見ていた。黒澤明は望遠カメラを好んだことで知られている。

蜘蛛巣城』で三船敏郎のすぐ近くに弓矢が当るシーンがあるが「あれは望遠で近くに見せているだけ」という仕掛けの解説もネットに出回り、なるほどと思った。とはいえ、黒澤明が望遠カメラを好んだのは、そうしたトリックのためだけではなかろう。

茶室に複数の人が座っているというシーンも、わざわざずいぶん離れた位置から、望遠カメラを使って撮影した、ということもよく言われている。

私がたまたま見ていたのは『まあだだよ』だったのだが、そんなことが気になっていたので、終戦直後に百閒夫妻が身を寄せた掘っ立て小屋住宅が映ったとき、ああこれが黒澤明の望遠映像だなと感心した。

望遠なので、家の中にいる夫妻と、家の前を訪れた弟子たちとで、体の大きさがあまり変わらない。家の縦横が直角でゆがまない。その代わり、掘っ建て小屋とはいえ、家の入り口から家の奥までが、あまりに短く見えていた。

しかしともあれ、いろいろ短所がありつつも、黒澤明は、この望遠カメラによる物の重なりを、そして、もちろん映画なので、望遠カメラによる物の動きを、なぜか強く好んだ=心地よく思った、ということなのだろう。

 

ここで私が面白いと思うのは、こうした「望遠カメラによる物の重なりや物の動きが面白い」といった感覚は、他の何かの類推が難しいと思えることだ。もちろん、批評なら、そうした感覚を、たとえば思想の類推で分析したり、今ならたとえば疾病の類推で分析したりするだろうが。

 

宮崎駿のクレーンカメラ的動き、そして黒澤明の望遠カメラの映像、これらから言えるのは、ただ、映像は面白い、物が動くのは面白い、視点=見る位置や角度や狭さおよびそれが変化すること=は面白い、ということにつきる。そして、それは他の何ものにも変え難く面白いということにつきる。

 

しかし。ここで話は一応つながりつつ大きくジャンプする。今回の引きこもり期間は長いので、私は村上春樹騎士団長殺し』も読み切ってしまった。村上春樹の小説は何が心地よいのだろう。今回も首をひねりながら読んだ。そして思った最大のことー。

村上春樹の小説は、私にとってはストーリーも面白いし人物も面白いしいろいろ面白いのだが、しかしひょっとして、小説が転じていく様相そのものが面白いではなかろうか。つまり、具体的な物語の展開や人物の行動や心情の展開を超えて、文章そのものの展開の構造が面白いのかもしれない、抽象的に。

いや、ちょっとややこしく書いてしまった。要するに、村上春樹の小説を読むときは、文章を読むことのベーシックな面白さに出会う。文章が何かを創造したり構成したり描写したり説明したりという、そのこと自体がなんだかとてもわくわくぞわぞわする気持ちがして、面白い、というようなこと。

そして、さっきの話に戻ってくるが、これは、カメラが上昇していくとわくわくする、望遠で眺めるとぞわぞわする、そのなかを物が動き人が動くそのこと自体が面白い、という感覚に近いと思われるのだ!

 

もう1つ言いたい。映画の誕生とともに私たちの視覚が分析され探求された可能性があるように、近代の長編小説の誕生によって私たちの言葉の感覚(主には文章を読む感覚)も大きく転じた可能性がある。それまではそんなに長い話をみんなが一斉に熱心に読むという事象はなかっただろう。

まじまじと眺めるから奇妙な感覚になるように(映画)、まじまじと読み込むから奇妙な感覚になるのだ(小説)。

そして、その上で指摘すべきこと。この長い引きこもり期間中、なぜこれほど小説を読まないのか、だ。ネットのニュースやツイッターを読むことが文章を読むことと同義になっている。しかし、小説で文章の動き自体の奇妙さに触れるようなことは、ツイッターをいくら読んでもなかなか起こらない。