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【2019 輪廻転生】

ギャツビーを読もう(と僕は言った)


仕事の末期はいつも綱渡りで(期日までにちゃんと出来るか)、他になにかする余裕がなくなってしまう。そのせいで家と往復する電車の中くらいはどうしても違うことを考えたくなり、全然別の本を読む。

といっても、心が忙しいと、たとえば小説などは集中して読めない。じゃあ何を読もうか。出がけに本棚から急いで探してかばんに入れる。今回は野崎昭弘不完全性定理―数学的体系のあゆみ』(ちくま学芸文庫)だった。

なんでそんなものをという感じだが、このまったく理に偏ったはずのテーマに、情や個性がどことなく浮かんできて、ふしぎと気持ちが落ち着くのだ。これに続けて出た『数学的センス』(同著者・同文庫)も同様。やはり文章には人格というものが現れるのか。カバーにある野崎さんの顔からは永井荷風の顔がどことなく浮かんできて、これまた吉。

不完全性定理そのものの説明は短い。肝どころが分かっている人じゃないと肝どころは分からないのだろう、ということだけが分かる。しかし、べつにこれは仕事場に着くまでに全体を理解せねばならないという条件で読むわけではない。ところどころじわっと分かる場面が出てくるのを受動的に待っていればそれでいい。そういう読書は頭が非常に嬉しいものだ。

 *

さてそんなわけで、仕事が一段落すると今度は小説が読みたくなった。そういう頭の奪われ方をしたくなった。休暇をとって旅に出るようなものかもしれない。小説体験とはやっぱり旅行体験に似ているのだ。

世の中には村上春樹が好きな人は多いが世の中には村上春樹が嫌いな人も多いので、遠慮しがちに言うけれど、きょうから読もうと思うのはフィツジェラルドグレート・ギャツビー』(村上訳)だ。

この小説は野崎孝訳が有名で、そっちはしばらく前に私も読んだ。

感想は「後半が速い」だった。(これは、夏目漱石の『』の感想を書けといわれても感想というなら「後半が長い」とかでしょうか、という話を高橋源一郎がどこかでしていたことに対応している) 事件の最後はあっという間だった。初めと終わりの感傷と内省の深さに対し、事件が衝撃的であるだけに分量が少ないと感じられたのだ。いずれにしても、繰り返し読みたい小説の一つであることは間違いない。だったら今度は村上訳で。なにしろ、そもそもこれは村上春樹の小説そっくりの文体なのだから。(もちろん実際は春樹小説がフィツジェラルド小説そっくりということになる)

野崎訳に不満はなかった。ただ読んだ後で、野崎訳と村上訳の違いがウェブ上でよく取り上げられているのを知った。以下は小説冒頭部分。

 ぼくがまだ年若く、いまよりもっと傷つきやすい心を持っていた時分に、父がある忠告を与えてくれたけど、爾来ぼくは、その忠告を、心の中でくりかえし反芻してきた「人を批判したいような気持ちが起きた場合にはだな」と、父は言うのである「この世の中の人がみんなお前と同じように恵まれているわけではないということを、ちょっと思い出してみるのだ」(野崎訳)

 僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。
「誰かのことを批判したくなった時には、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」(村上訳)

これはもう村上訳も読まないわけにはいかない。そう思った。野崎孝も当然言葉を選びに選び抜いたにちがいない。村上春樹はそれを踏まえ自分の読み方も踏まえ、さらに一字一句完璧に納得できるまでの選び方をしたのだろう。

なお小説は以下のように続いていく。

 父はこれ以上多くを語らなかった。しかし、父とぼくは、多くを語らずして人なみ以上に意を通じ合うのが常だったから、この父のことばにもいろいろ言外の意味がこめられていることがぼくにはわかっていた。このためぼくは、ものごとを断定的に割り切ってしまわぬ傾向を持つようになったけれど、この習慣のおかげで、いろいろと珍しい性格にお目にかかりもし、同時にまた、厄介至極なくだらぬ連中のお相手をさせられる破目にもたちいたった。(野崎訳)

 父はそれ以上の細かい説明をしてくれなかったけれど、僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった。だから、そこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているのだろうという察しはついた。おかげで僕は、何ごとによらずものごとをすぐに決めつけないという傾向を身につけてしまった。そのような習性は僕のまわりに、一風変わった性格の人々を数多く招き寄せることになったし、また往々にして、僕を退屈きわまりない人々のかっこうの餌食にもした。(村上訳)

……もう旅行が始まってしまった。そういうものだ。一度行ったことがある旅先にもう一度行く。おなじみの風景を同じように、そして少しだけ違ったように眺める。小説は旅行にあまりにも似ているのである。


不完全性定理―数学的体系のあゆみ asin:4480089888
◎数学的センス asin:4480090568
グレート・ギャツビー(村上訳)asin:4124035047
グレート・ギャツビー(野崎訳)asin:4102063013


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(追記9.10)

上に「後半が速い」と書いたが撤回。再読で印象はがらりと変わった。むしろ緩急の絶妙に素晴らしい小説だった。風景や心情そして語り手の思考にも十分浸って読むことができた。

あまりに当たり前なことを言うが、こういうところに村上春樹の小説の原点があるのだと、やっぱり本当に感じる。なにかを喪失した過去の回想。友情への熱望とその実在への信。チャンドラー『長いお別れ』がどうしても思い起こされる。

以下は、語り手が初めて言葉を交わしたギャツビーの、比類なき微笑みの形容。

その微笑みは一瞬、外に広がる世界の全景とじかに向かい合う。あるいは向かい合ったかのように見える。それからぱっと相手一人に集中する。たとえ何があろうと、私はあなたの側につかないわけにはいかないのですよ、とでもいうみたいに。その微笑みは、あなたが「ここまでは理解してもらいたい」と求めるとおりに、あなたを理解してくれる。自らこうあってほしいとあなたが望むとおりのかたちで、あなたを認めてくれる。あなたが相手に与えたいと思う最良の印象を、あなたは実際に与えることができたのだと、しっかり請け合ってくれる。》(グレート・ギャツビー 村上春樹訳 p93)


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(下のコメントを受けて 9.10)

今回ギャツビーを読んでつくづく思ったのは、小説とは、その文章のペースに寄り添いその文章のトーンに染まりながら読むことを自ずと強いてくるものである、ということでした。その独特のペースやトーンに合わせて並走して初めて感じ取れる内実が間違いなくあるということでした。よく言われるように、中身を要約して理解しても小説の読書は無意味ということになるのでしょう。

近ごろ私たちが文章と接するのは、なにかの必要に応じて解説や報告をささっと把握するためばかりのようになっている気もします。そういうなかで小説とはなんと豊穣で贅沢なことか。そして、そうしたやや面倒な読みの体験に耐えて最後まで味わいつくせた作品は、やっぱり忘れがたいものになるでしょう。

そのようにして読んだ村上春樹が無性に気に入らないというのは、村上春樹が無性に気に入ったということとほとんど同じことであり、そのわけを考える意義は同様にあると思います。日本に長く住んでいれば、たとえば靖国が気に入らなくても靖国のことを考えざるを得ないのと同じで、この10年20年 我らが世情とともにあった村上春樹を、私たちが気にしないではいられないのは道理というものかもしれませんね。