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【2019 輪廻転生】

★量子力学のイデオロギー/佐藤文隆

佐藤文隆量子力学イデオロギー

改めて特別に魅了されている。なんかこれ、切れ味バツグンの文芸評論に出くわした感じ。つまりこれは批評を読む興奮なのだろう。といっても、佐藤文隆はまぎれもない物理学者なのだから、物理学者が自ら物理学批評を書いている形。

ちょっとヘンなのは、作品と批評でいうと、量子力学の作品を私はほぼ読んでいないのに、その作品をめぐる批評だけを読んで、量子力学の深みにはまった気になり狂喜乱舞していること。

そういうことはあるだろうか? 小説で。映画で。音楽で。絵画で。

 

中身についても書くべきだ。

量子力学はいわく不可解ということで、みんな緩く安心しているが、だったら古典力学は不可解ではないと言い切れるのか、という問いが、佐藤文隆の考察の行き着く先に、本質的なものとして浮上してくる感がある。ジャンルを超えた巨大な感興が巻き起こる。

《確かに、古典物理は身体的に親しい。しかし、電磁現象(*古典物理の範疇)は完全に身体を離れているのに飛躍を感じないのは、文化的に親しいからといえよう。この理屈で言えば、我々は間もなく量子力学にも文化的に親しくなってくのかもしれない》p.87

《「わかる」ことを哲学的に深く考えれば、地動説さえ「わかる」のかという議論にいきつく。しかし地動説は「わかる」ような気分にある人は多いと思う》《「わかる」も程度問題だとして、「地動説並に相対性理論量子力学もわかるようになるのか」という問題の建て方をすべきだろう》p.69

とはいえ著者は、ニュートン力学量子力学をまったく相対的にとらえてはいない。ニュートン力学が時間や空間を絶対的な背景にしていることには、歴史も文化も超えた何らかの理がある可能性も、想定しているところが、いっそう深い感興をもたらす。

それは人間の知性の限界を示しているのかもしれないが、逆にそれは、人間の知性の超越を示しているのかもしれない、という妄想も可能なのではないか。

今述べたことを思ったのは次のくだり。

《物理学の新しい認識でそうなった以上、少なくとも物理学の中では、みんなが量子力学を基礎とするように観念を組み替えればいいとも言える。古典物理だって科学者が取り込んだもので、単にその入れ替えをやればいいという考え方である。もしそうでないと言うなら、古典物理「学」と学以前の人げの認識法の間に特別な関係を想定することになる。もしそうなら簡単に「悔い改める」ことはできるものでもないし、すべきでもない》p.70

「できるものでもないし、すべきでもない」に著者の本音が隠れている! と私はつい思ったのだ。

でもやっぱりここは、「古典物理学=学以前の人間の認識法」であるなら、それは超越を示していてスゴイというのは私の誤読であり、限界を示していてショボいという読解が正しいだろう。それより、「学以前の人間の認識法」には、やがて量子力学も取り込んでしまう拡張性を秘めている、ほうに期待。

 

急いでレスで言え。そんな気分。《もし毒蛇に噛まれたら。素早くナイフで傷口を切り裂き、急いで口で吸え》

 

量子力学のイデオロギー

量子力学のイデオロギー

 

 

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