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【2019 輪廻転生】

やぶれかぶれの国情?


原爆で得した日本人(美濃口 坦)http://www.yorozubp.com/0708/070816.htm

これは実に考えさせられる考察。

私もまた久間騒動に遭遇したからこそ、たとえばこんなふうな知見を拾い出すこともできた。だからまあ「しょうがない発言だった(真意は分からないが)」、私は得をした、とも言える。

まず以下の奇妙な心情を知らされて、驚く。

日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭ききっていた者も、すべて被爆この方俄然豹変して徹底的抗戦論者になっている。そこへ降伏ときたのだからおさまるはずがない。すべてを失い裸一貫。これ以上なくなることはない。破れかぶれだ」(広島逓信病院・院長蜂谷道彦「ヒロシマ日記」より)

さて、ここから進んで行く美濃口坦の論はなかなか複雑。またのちほど。ちなみに「美濃口たん」と呼ぶとへんに親しみが持てる。

(以下追加)

この論は、《同じ国民ながら被爆するという過酷な運命に遭った少数の日本人と原爆投下で戦争が終わって得した大多数の人々》という見方を浮上させ、そのうえで、《少数の被爆者とそうでない大多数の日本人の間の相違を意識しないですませようとする傾向》を強く戒めている。

それにからんで以下の不思議な事実も指摘されている。

戦争中私たちは「鬼畜米英」といっていた。でも日本人は当時本当に米国人や英国人を憎んでいたのだろうか。でも本当に「鬼畜米英」だと思っていたのなら私たちは占領米軍に対して別の態度をとったように思われる

たしかに、米軍のイラク占領などもふと日本の戦後を比較して眺め、全然様子が違うよなと首をひねってしまう。これについては坂口安吾が昔なにか書いていたのを思い出す。

ともあれ、美濃タンはその理由をこう考えている。

例えば自分の家族が殺されたり、土地を奪われたりして隣国に憎悪を抱くようになってはじまる戦争があるが、それとは異なり、私たちのほうには頭の中に紋切り型のスローガンがつまっているだけであった。そのようなスローガンを叫ぶ人々の剣幕に押されて、これらの紋切り型を現実と検証しないまま戦争をしていた。戦争が終わると今度は別の紋切り型がそれまでのにとってかわった。そう思われてしかたがない

原爆はそれとどう関係するのかというと、つまるところ「被爆した者だけは正真正銘の鬼畜米英に出会った」という認識だとも受け取れる。そうしてある作家の弁から被爆者の胸の内をくみ取り、《「原爆投下」なしでは降伏を決断できなかった当時の為政者を批判しているのである》と述べる。

しかしながら、《原爆投下を「天災」と同列に置き、倫理的、政治的、法的責任を問おうとしない風土》は、被爆者を含めた日本国民全体の心情、という認識でもあるようだ。

さて、これらの基底にあるのは以下のことだと思われる。

戦争する国民は戦争についてどこの国でも同じ考え方をもっているとは限らない

ただ実は、このことについては私はどうもよく分からない。ドイツ人やアメリカ人は戦争に対する考えがそんなに違うのだろうか。違うということを想像できない。それは一重に「あの戦争を政治ではなく天災ととらえてしまう」という心情が、私はむしろ当然のように感じられ、そう感じない心情の持ち主のことをなかなか想像できないことから来ていると思われる。

しかし、《私たちは自分たちがした戦争の奇妙さにもっと眼を向けるべきである》。やっぱりそうなのだろう。

ナチの強制収容所に閉じ込められた犠牲者は、日本の原水爆禁止運動のように「ノーモア・アウシュビッツ」運動の先頭に立つことがなかった。ここまで考えた私は奇妙な疑いをもつ。8月6日に「徹底的抗戦者」に転向した被爆者が「ノーモア・ヒロシマ」運動の先頭に立ったのは、私たちが彼らを社会的に孤立させると同時に戦時下の路線をそのまま走ってしまうところがあったからではないのか