《我々はいつか死にます。こうして考え、認識している主体にも終わりが来ます。このこと自体を考えることは、自分自身にとても不思議な感覚をもたらします》
――これは、いつものように、年をとったロマン主義者の私が言っているのではない。若い科学者である松尾豊さんが言っている。
これは、「人工知能とは何か」という問いには、どうしても「人工的に作られた人間のような知能である」と、トートロジー的に答えざるを得ない理由を語ろうとして、述べられたもの。『人工知能とは』(人工知能学会 監修・近代科学社)から。
続けて引用。
《今まで見聞きしたさまざまな知識や経験から、こうして考えている我々自身の認識を、あるいは世界の認識のすべてを我々の脳が作り出しており、しかもそれが何らかの物理法則にのっとった現象であると、どうやら認めざるを得ないのです。そういうわけで、我々は、我々の我々の脳に内在する「知能の仕組み」を知りたい、作りたいと願うのです。
したがって、我々が作りたいと願う「人工知能」は、必然的に人間のような知能であり、人工的に作れる必要があります。そして、知能というのは、まさに我々がその存在と神秘性に畏怖を抱いている対象そのものであると言えるのです》
人工知能を作る研究や作業というのは、人間が死ぬとはどういうことなんだろう、なぜ死ぬのが平気でなんだろう(または、人によっては、なぜ死んでも平気なんだろう)、そうした、たぶん多くの人にとっての、最重要の問いの、答えに近づくための最も現代的な方法ということになろうか。
まさにこっちは「哲学のための人工知能」だ(「人工知能のための哲学」ならぬ)
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20180605/p1 へ続く