遅ればせながら開く。
第3部の宮崎駿批判が予想外にもカンペキな説得力! 唖然としてしまった。しかも続く第4部はその鮮やかなステージアップとして設定されているではないか。かくも長い評論に騙されたと思ってつきあうことにした者のコストにも見合って余りある。
ところで文化や社会を本気で評論する行為とは、本気の政治なのだろうか、それとも本気の虚構なのだろうか。そんな問いが浮かんできた。
そしてもう1つべつの疑念―― 評論もまた、どうせ《空位の王座を守ることで、その偽りであることを自覚しながらも「あえて」演じることで、成熟を得》る行為にすぎない、ということはないのか?
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(4月12日)
思いがけず2011年以後の左右対立の話がまず出てくるので、なにしろ共感。それどころか『敗戦後論』が出て「そうなのか!」。加藤典洋はアトムとゴジラの一対性に敗戦後論で展開した同一人格の分裂をみているのだという。へ〜え!
このアトムとゴジラの一対性というのは、『母性のディストピア』がアニメを批評する前提となる見取り図。それがつまり日本の戦後の偽悪(右派)と偽善(左派)の相互補完の構図に通じるという洞察が、同書の真骨頂と思われるが、それは考えてみれば加藤典洋『敗戦後論』の構図と、同じものなのだ。
同書はそもそもアニメを論じる。この日本にそれ以外に論じる価値のあるものなどありますか、と最初に挑戦的に断言したうえで。
しかし、宇野の思索の根幹には、2011年以後の日本社会の左右対立があり、しかもそれは『敗戦後論』に通じ、江藤淳や三島由紀夫に通じ、柄谷行人や高橋源一郎らによる「湾岸戦争に反対する文学者声明」も絡んでくる(この声明を批判して干されたと訴えるのが加藤典洋だったりもする)
つまり、『母性のディストピア』は、かれこれ20年くらい、そして2011年以後には改めて、私が迷い考えあぐねてきた「日本の戦後の評価」をめぐっているのだ。アニメを通じてそれは論じられるのだが、その問い自体はまさに私の問いであり、しかも戦後日本で繰り返された問いなのだと、気づかされた。
そしてもう1つ『母性のディストピア』が独創的なのは、第2部の総論で戦後のアニメや漫画を追った末に、「虚構の時代」から「現実の時代」への変遷という、これ自体はある程度知られた構図を、インターネットの現状分析によっていわば実証してみせること! ここもまさに私自身の最大の関心事だ。
すなわち(たとえば)《現代ではあまりに多くのものがソーシャルネットワークに、現実に塗りつぶされている。物語への没入装置としても、ゲームの乱数供給源としても、「現実」こそがもっとも高いパフォーマンスを発揮するシステムなのだ。(…)ある側面を切りとればソーシャルネットワークとは、こうした現実の社会そのものをエンターテインメントにするためのシステムだとも言えるだろう》