東京永久観光

【2019 輪廻転生】

知性の定義が変わるとき?


http://kaseinoji.hatenablog.com/entry/carlo-rovelli#%E3%81%93%E3%81%AE%E7%9F%A5%E6%80%A7%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B

《人間の認知能力は知性のいちバリエーションでしかなく、他の知性のあり方があるのではないか。この意識も、この「私」も、地球という特殊な環境だけのために40億年かけてカスタマイズされた、ガラケーの…》(未翻訳ブックレビュー/ちょっと今から人間やめてくる -「すごい物理学講義」とホモ・デウスの話)


人間の知性が最高の知性だと思うのは、キリスト教イスラム教が最高の宗教だと思うのに似て、傲慢かもしれない。それでも、知性の定義によっては、生命があり意識があり言語をもち数学をもつこの知性は、けっこうレベルが高いのではないかと、私はつい思ってしまう。

しかし、知性の定義を変えれば話は変わる。それどころか、引用ブログが示すとおり、「時間や空間という方便でしか世界を捉えないのではなく、量子力学相対性理論をズバリ実感できるような知性」(主旨)ということになれば、人間は当てはまらない。

そこで一つ私が思うのは―― 新しい定義による新しい知性を探すとき、私たちはよく遠くの星々を探そうとするが、しかしまずは近くの地球をもっと探してはどうだろう。人間に似た哺乳類でもいいし、人間とはまったく違う鳥や魚や虫や樹や花や菌でもいい。……そんな私の背中を人工知能がとんとんと叩く。

ところで、知性を考える際に意識をどう位置づけるかは大きなポイントだろう。引用ブログによれば、『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリは「意識はむしろジャマかもしれない」(主旨)とみているようだ。人工知能ますます優勢か。また、もし小麦が知性体なら人間はとうの昔に負けている。

とはいえ、そもそも「人間の知性こそ、みればみるほど、きわめてエクセレントな知性だよね」という見解もやはり捨てきれない。私は以前それを『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由』(スティーヴン・ウェッブ)を読んで実感した。=以下のリンク=
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050726/p1