『ゲンロン0 観光客の哲学』を再読。郵便的マルチチュードということの核心が、私には、スモールワールドやローティを通して以上に、第二部「不気味なもの」に至って、ついに本当に見えてきた感!
《…観光客の視線とは、世界を写真あるいは映画のようにではなく、コンピュータのインターフェースのように捉える視線なのではないだろうか? そこにはイメージもあればシンボルもあり、そして解読しなければならない暗号もある》(p.257)
◎以前の感想
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20170402/p1
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(話は変わるが…)
「こうだ!」と断じるツイートより、「こうか?」と問うツイートが、もっとあっていい。音楽や美術も「こうだ!」より「こうか?」のほうに惹かれる。
やや強引に『ゲンロン0』につなげると――
観光客とは、定住者と移動者の間にあって双方に「本当にそうかい?」と問いを投げかける存在なのかもしれない。もちろん自身もどこかに定住を強いられ、かつ、いつでも移動を許される存在である。だからその問いは、自らの定住と移動に対する疑問でもある。