東京永久観光

【2019 輪廻転生】

絵は文字に代わる記号になれるか?


昔は文字も絵も手で書いた(描いた)。しかし今では、文字は完璧に電算的に入力され普遍的な情報として流通する。

この異様な激変は、十分に指摘されず、そもそも十分に自覚されずにきた感じがあるが、絵の入力や流通が本当に面倒であることとの差に気づくと、どれほど強調しても足りないと思う。

……と言ってから「待てよ、絵はスタンプがあるじゃないか」と気づく。そして、スタンプというものを使えない、まだ使ったことがない、それどころかまだスマホも持っていない自分は、もはやネアンデルタール人かと思う……

ともあれ、言語という強力な記号を口や手で軽々と操るようになっただけでなく、それを電算的なシステムにし(つまりワープロ)、地球的なシステムにし(つまりネット)、そのうえでまるで自らの口や手と同じくらい身体化(つまりスマホ等)させた私たちは、そもそも、もはやホモ・サピエンスじゃないよ!

そしてまた絵の話に切り替えるが、じつは、絵は言語のような記号ではまったくなかった、ということを踏まえければいけないだろう。だからこそ、絵は、文字のような完璧にして簡略な表記システム(アルファベットとか50音とか)を備えようがないのかもしれない。

ではなぜ、絵は、字(ことば)に変わる記号表記として、初期人類に備わったりしなかったのか。地面に「あ〜う〜」と描くのも、地面に「◯〜△〜」と描くのも、それ自体は似ているようなのに。――答えは単純で、絵は言葉と違って口では扱えなかったからだろう(手で扱う文字とは近いけれど)

だから、人類にとって、絵を字(言語)のように電算化・普遍化しようと目論んでも、由来が異なるのだから、それはできない相談だ、ということになる。

しかし、そこを無理やり 絵を電算化・普遍化してみることで、絵が あら不思議 いつのまにか 言語と同じくらい強力な、つまり何でも表現できるような記号として確立してしまいました! なんてことにはならないのだろうかと、今夜も夢想するのである。

いわく「LINEのスタンプで、新ホモ・サピエンスは、思考し会話する」と。

しかしまあ実際は、スタンプが表す意味は いずれも言葉で表せるものでしかないようにも思う。 これはいったい何故なんだと真剣に考えてみるに、「意味」とはそもそも「記号」だけがもつからだろう。絵はそもそも何かの象徴ではなく何かそのものだ。

「絵が何かを象徴するとしても、それは言語が象徴できるものをただ置き換えたにすぎない」説。

しかしだからこそ、絵が言語には象徴できない何かを象徴する=言語では言えないような意味をもつ=のではないか、という夢想(あくまで夢想)もまた生じるのだ。


だけど、ここでがらっと話を展開させ、新たに踏まえるべきことを書いておく。

「あらゆる事象を私たちは言語というフィルターを通して認知する」と言えるのだとしても、実はまったく同様に、「あらゆる事象を私たちは視覚というフィルターを通して認知する」とも言えるかもしれない、のだ。

なおこれ(視覚の重要性・ひょっとして普遍性)は、今またスティーブン・ピンカー『心の仕組み』(中巻)を読んでいるからこそ、初めて考えることができたことだ。

心の仕組み~人間関係にどう関わるか〈上〉 (NHKブックス)
心の仕組み 上 (ちくま学芸文庫)