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【2019 輪廻転生】

否定や疑問こそ言語の本質ではないか



さて、言語の本質とは何だっけ。これを機にさっと思い起こそう。

チョムスキーは、つまるところ「再帰性」だと考える。

再帰性(recursion)とは、たとえば、「彼は感染した」という文が、「「彼は感染した」と医者は言った」、 「「「彼は感染した」と医者は言った」」と君は信じている」、 「「「「彼は感染した」と医者は言った」」と君は信じている」」」と私は思う」、のように同じ構造を入れ子にしていくらでも拡張できる性質をいう。

この性質は人間の言語にしかない、つまり他の動物の認知には決して現れないとチョムスキーは確信する。そして、再帰性の何がすごいのかといえば、有限の語を使って無限の文が産み出せることだとする。

しかし、こう強調されて素朴にどうだろう。私は正直「ふ〜ん」という感じだった。

言語がわかる能力はヒトの脳だけに固有のしくみとして埋め込まれている。したがって、世界のあらゆる言語において文を生成する根本ルールは共通のはずだ。――そんな大胆な主旨のことをチョムスキーはずっと主張してきた。その「固有のしくみ」や「根本ルール」のカナメにあたるのが「再帰性」ということになるわけだ。世紀を揺るがした大風呂敷のわりに、結び目はずいぶんあっさりしてないか、という違和感が残るのだ。

一方、たとえばテレンス・ディーコンの著書を読んだときは、そうか「シンボル性」こそ言語の本質だ! と納得した。目が覚めるようだった。(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070110#p1

シンボル性とは一部の記号だけがもつ性質。動物の鳴き声などはどれもシンボル性をもたない記号だとされる。たとえば、あるサルは叫び声によって仲間に危険を知らせるが、その叫び声は対応する天敵が実際に現れたときにしか使われない。それに対し人間だけは、たとえばゴジラがそこにいなくてもパンデミックがそこになくても東京大空襲がそこになくても、「ゴジラ」「パンデミック」「東京大空襲」という記号を頻繁に使う。

さらに、リンゴやバナナをそれぞれ「A」や「B」の記号に対応させた場合、私たちなら、リンゴやバナナの現物から「A」や「B」の記号を選ぶことができるし、その逆もできる。これに対し他の霊長類では、リンゴやバナナを見て「A」や「B」の札を選ぶようなことはできたが、「A」や「B」の札を見てリンゴやバナナを選ぶようなことはいくら訓練してもほとんどできなかったと報告されている。これまた、シンボル性をもつ記号は人間にしか扱えないことの証拠とされることがある。

そんなわけで、「ヒトの言語の本質」としてよく指摘される「再帰性」「シンボル性」のうち、私がヒトとしてピンとくるのは「再帰性」より「シンボル性」なのだった。

これに加えて私の思いつきを先のエントリーに書いた。「疑問や否定の形を作れること」こそ「言語の本質」ではないのか、と。そして、チョムスキーが人間の言語を確実に捉えたのであれば、「再帰性」に加えてそうした発見や発想はまったく示唆してこなかったのか、非常に気になるのだ。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20090522#p1


[補足-1] 再帰性をめぐってはきわめて面白い点もある。それは、文をいくらでも拡張できる性質が、自然数をいくらでも数えられる性質に似ていることだ。実際にチョムスキーは数える能力と言語能力とを同一起源とみている。この観点からは、たしかに再帰性というものは「とんでもない何かである」と感じられる。しかしそれは言語に特有という以上に「この世の知性というもの全体においてもっと普遍的な何かではないのか」とも感じられる。参照『生成文法の企て』(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20080413#p1

[補足-2] 再帰性だけが人間の言語にしかないモジュールであると、チョムスキーは2002年サイエンス誌に発表した論文で鮮明に述べている。この論文は、チョムスキーが言語の起源に初めて言及したとも評される。チョムスキーは、言語能力はあるとき一挙に人間の脳に備わったとみる立場であり、言語の進化や起源の考察はタブー視してきたのだ。したがってこの突然の言及は衝撃が大きく、チョムスキー系の言語学者も言語に対する進化学からのアプローチをとうとう認めざるをえなくなったとも言われる。同論文は、岩波『科学』2004年7月号「言語の起源」特集に一部が翻訳されている。

[補足-3] そもそもチョムスキーは、言語能力を「文を作る」という点に限定している。それ以外のたとえば語彙という点、つまり、ある果物を「ringo」と呼ぶか「apple」と呼ぶかといったことなどには拘らない。この意味で、言語の本質は統語=文法にあるということもチョムスキーにとっては前提だ。なお、動物の鳴き声が言語と呼ばれない理由として、大半の場合にそうした統語=文法を欠いていることもしばしば指摘される。