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【2019 輪廻転生】

言語のゆくえ2010 (6) 〜以下をすべて図示せよ


ミュンヒハウゼン症候群

◆自分に周囲の関心を引き寄せるために虚偽の話をしたり、自らの体を傷付けたり、病気を装ったりする症例の事。

◆自分以外を傷つけ、周囲の関心を引き寄せるのは代理ミュンヒハウゼン症候群

◆患者は病気を創作もしくは既に罹患している病気を殊更に重症であるように誇張し、病院に通院・入院する。一つの病気の問題が解決、虚偽が見破られたり、小康状態に陥ると更に新たな病気を作り出す。重篤な患者と見せかける為に自傷行為や検査検体のすり替え、偽造工作と言ったものを繰り返し行うことがある。(以上Wikipediaから)


言語が万能なのは、
こんなふうに「新たな概念に新たな名前をつけられる」からか。
それもある。
しかしそれ以上にすごいのは、こんなふうに、
ミュンヒハウゼン症候群」であれ「代理ミュンヒハウゼン症候群」であれ
あらゆるものごとについて、
「それが何であるかを、言語だけを使って、とりあえず説明できてしまう」
ことではないか。


しかしそれならばこう問いたい。
絵や図は言語ほど万能ではないのか?


たとえば「代理ミュンヒハウゼン症候群」を
絵や図は表せないのだろうか?
われわれが言語によって記している概念や説明のことごとくを
絵や図が代行することは不可能なのだろうか?


不可能だ。…と感じる?
しかしそれは、言語という記号が、
現状では、絵や図などの他の記号に比較して、
最も多くの種類(単語)と、
最も多くの組み立て方式(文法)を
もつだけのことではないか?


言語ほどの広範で複雑な記号の体系を
絵や図は原理的に作れない、
ということはないと思うのだが…
(たとえば「→」や「○」「×」などは
 言語の代わりを立派にはたす)


しかし、ここで踏まえておくべきは
言語は、文字であるだけでなく、音声でもあることだ。
そうしたことから、結局、
「頭に浮かんだことそのままが言語なのだよ」
とすら感じられることも多い。
実際そうだというべきかもしれない。


ただ、近ごろの暮らしは、
メールとかブログとかツイッターとか
言語といっても文字ばかりだ。
そのうちわれわれは音声を忘れてしまうのでは?
ちょっと心配になる。


その反対に、広範さや複雑さを増しているのは、
アイコンそして絵文字だろうか。


こうした傾向が長らく続くと、
「わたしは絵文字がまず頭に浮かびます」という人が
 出てくるかもしれない。
(しかしそのヒトはどんな音声を発するのだ?)
あるいは、
「私は文字を見ても音声にはなりません」という人も。


絵の文字は、言語の文字に比べ、まだはるかに未熟だ。
しかし言語においても、文字は音声と完全に一致してきたわけではない。
だいたい昔はだれもが文字なしの音声だけでやっていた。
それどころか、出版物が普及するまで、
われわれは今ほど文字を読むばかりの生涯ではなかった。
そしてもう一つ気づかねばならないのは、
インターネットが普及するまで、
われわれは今ほど文字を書いてばかりの生涯ではなかったことだ!


なお、よく指摘されるように、
アルファベットは音声そのものに近いが
漢字はいくぶん絵や図に近い。
とりわけ「謹賀新年!」「賀正」なんて
書きはするがあまり口にはしない。
…でも「あけおめことよろ」は音声が先だったのか?
中国で町の名を知っているのにどうしても読めない時の不思議。


 *以下続き(5.12)


ものごとを写し取る(表象する)
最も広範で複雑なシステムが、
現状では言語だと思う。


だから、絵や図が
それと同じくらい広範で複雑に
ものごとを写し取ることができれば、
それは言語と同等だし、
あるいは、それはもう言語と呼ぶべきかもしれない。


あるいは、絵や図が、
言語とは違った方式で、または、
言語以上に広範で複雑な方式で、
ものごとを写し取ることができたなら、
それは凄いことだ。しかし、
現在の言語しか知らない私には、
それがどういうものかを想像するのは
難しいのではないかと思う。


これとは別の興味がもうひとつ。


絵や図が、文字の言語の代わりをする場合、
われわれがしゃべる言語はどうなるのだろう?


いや、これは疑問の方向が逆かもしれない。
われわれがこのように言語をしゃべるから、
それに合わせて、
このような文字の言語が出来たのだろう。


そうすると、しかし、その場合に、
表音の文字か、表意の文字かは
決定的な違いになるように思う。


これだけ考えたが、
すでに分かっていること以上に
何も明らかになっていないのだが、
われわれが生きている言語の世界、
そして文字の世界とは、
なかなか微妙なものだなあという実感は
強くなった。
そして、
絵や図でものごとすべてをうつしとる方式と
現在の文字言語の方式とは、
まったく違うと思っていたが、
どうもよく分からなくなってしまった。