東京永久観光

【2019 輪廻転生】

手書きの文字が担う体験は同一の情報ではない(?)


あなどれない「手書き」の学習効果

実感としてもそのとおり。しかし何故なんだろう。

今思いついた答え:パソコンの文字は、いつだれがどこで入力しても、いずれも同一不変の概念=情報であるとみてしまう(脳がというか、私がというか)

ところが、文字を手書きするときは、1回1回、筆記具も媒体も形も大きさも、いちいち少しずつは異なるわけで、そのせいで、一つ一つを個別の事象としてみようとするからではないか。けっして同一不変の概念=情報としてみるのではなく。

そして、個人の体験というのは、それがたとえば「賭博」であろうが「不倫」であろうが「差別」であろうが「真田丸」であろうが(どんな例でもいいのだが)、ひとつひとつ個別の意味や背景を伴った事象なのだから、ひとつひとつ異なる文字としてみるほうが、事象そのものを記憶しやすいのだろう。

つまり、ベッキーのことを知って「不倫」と手書きしたときと、乙武のそれを知って「不倫」と手書きしたときで、微妙に異なった文字の形やインクの濃さや力の入り具合が、私の脳の記憶のなかでは、ベッキー騒動と乙武騒動の非常に複雑部妙な意味合いを、うまい具合に担っているのではないかと。

そんなうまい具合にいくものか、と言いたくもなるが、でも案外、脳は そんなふうにうまい具合にやってくれているにちがいない。そうした確信のほうが強い。


フランスの偉い人だったデリダさんは、音声と文字を、なんかそんな観点から、区別したと思う。


ついでなので、話がだいぶ横にそれるが、双子は似ているが同一ではない。私のたとえば皮膚を作っている細胞の1つ1つも似ているけれど細かいところは同一ではないだろう。たとえば赤血球はたくさんあっても同一ではないだろう。仁丹の粒の1つ1つも同一ではないだろう。

ところが、決定的に不思議に思えるのは、電子とかクオークとかの素粒子と称されるものは、私が聞いたところによれば、完璧に同一の存在だ。――なんかヘンな感じがしないか? しかも、2つの素粒子がぶつかって互いに飛んでいったら、さっきどっちがどっちだったかを区別すらしないとか。

というわけで、毎度同じ感想だが、素粒子とは、仁丹や赤血球のような粒ではなく、いかなる粒でもない。物質としての実体があるかどうかがそもそも非常に疑わしく、いっそのこと、素粒子とは「物質」ではなく「情報」なんです、とみるのが、やっぱり当たっているように思うのであった。

ちょうど今、日経サイエンス(2014)で「実在の本質」という記事を読んでいることもあって。
http://www.nikkei-science.com/201402_064.html