哲学が何の役に立つのだ?
「僕ってみんなと違って昔から変なことばかり気になって妙に考えこむタチだったから、ずっと黙ってたんだけど、そうかこれが哲学だったんだ!」という僥倖は少なくとも得られる。冒頭の講義1で著者はそんなことを述懐している。(引用ではなく趣旨)
この手の本をまたわざわざ開いて感想まで書こうとする私もまた、この僕に似ているのか。
私の場合は成人後だが、分析哲学と呼ばれる何かに強烈に惹かれてきたことは間違いない。そこには「日本全国が浅田真央に熱狂している最中にカーリングのルールを調べてみる」といった「大勢が関心を向けないからこのオレが」という偏屈もあろう。しかし分析哲学が偏屈だけで楽しめるわけではない。
それにしても、哲学とりわけ分析哲学というジャンルが日本国民の熱狂をこれほど集めないのは何故だろう。
たとえば日本史という学問なら日本の歴史が対象だ。だから学ぶ人は日本の歴史に関して教科書を読んだり講義を聞いたりノートをとったりテストを受けたりするうちに、やがて時々おそろしく詳しくなっていく。一方、分析哲学は主に言語が対象だから、言語に関して似たような状況になりうるはずだ。つまり、恐ろしいのは哲学だけではない。本来は歴史などもそうなのだ。
ただ、歴史の勉強は小学校からずっとやってきたからそもそもの説明が要らない。一方、哲学はほとんどやっていないから、いったい何を勉強するんだというのが想像できない。哲学が親しまれないのにはその程度の理由もあろう。だから、哲学の本もためしに開いてみるとよいと思う。受験のせいで歴史の教科書をいやいや暗記した人の中からでも歴史好きは現れる。同じことにならないとは限らない。
さてそんなわけで、日本史の対象が日本の歴史であるように、分析哲学の主な対象は言語なので、「幕府にとって武士とは何か」を国民がやすやすと議論するように、分析哲学では「言語にとって意味とは何か」みたいな議論を平気で行う。
それが講義2から講義6まで続く。おなじみフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、クワインといった人の考えが解説される。
とりわけウィトゲンシュタインが中心だ。著者の関心領域の反映だろうか。著者自身が昔からずっと気になって考えこんできたポイントが、ウィトゲンシュタインに近かったということかもしれない。ともあれ、私としても久しぶりにウィトゲンシュタインの考えの底知れぬ面白さ(恐ろしさ)に直に触れた気がしている。
そして、新たに1つのことがこの本のおかげで明瞭になった。それが講義6「二つの自然と 意味の貨幣」だ。=続く=
[補足1点]
「言語論的転回」の意義を基礎として押さえておく必要がある。
《ところで、言語の機構を説明するだけなら、それは言語学とどう違うのでしょうか。さきほど私は、こう言いました。「言語によって世界が開かれるからこそ、言語の仕組みを見ることで世界の仕組みが分かる」。分析哲学的な言語への問いは、すべてではないにせよ、そのかなりの部分がこの信念と結びついています。そしてそうした問いは、言語だけでなく言語と世界の関わりについても、応答を迫ってきます。》(講義1 分析哲学とは何か)
だから、上に述べたことへの補足になるが、歴史学と言語学は対象が異なるだけだが、言語分析哲学は歴史学とも言語学とも対象の次元が異なると言うべきかもしれない。言い換えれば、歴史分析哲学というものもありえるだろうし実際あるのかもしれない。
=続きを書く=
ウィトゲンシュタインを通して見えてきた「ゲームのルールは規定できない」という事態。加えて、ルイス・キャロルが指摘したパラドックス。すなわち、「PならばQである、かつ、Pである」から「Qである」が導かれることに納得できない、というパラドックス。
これらについて、著者はこうまとめる。
《以上は、実践の一致の説明に「底」があることの一例です。私たちはみな、「PであるならばQである」と推論するでしょう。これは人間の自然な反応における一致であり、この意味での自然は、自然科学における自然よりも原初的なものです。自然科学の営みもまた、この原初的自然における無根拠な一致によって支えられており、この次元での一致を、科学的自然における何らかの一致によって説明することはできません》
自然科学を支えている原初的自然というものがある、しかもその原初的自然を支えるものは何もない、というショッキングな事態。《言葉の意味の探究は「底」にたどり着いてしまった》のか? 「とうとう世界の果てまで来たのかな」という感慨とともに。
しかし著者は、この2つがともに「自然」と呼ばれるのは偶然ではない、2つの関係を考えよう、と言う。それが「講義6 二つの自然と、意味の貨幣」。(以下に、だらだらとではあるが、メモしておく)
《二つの自然がともに「自然」と呼ばれるのは、いずれもが、実際に言語が流通する場としての自然世界に関連し、人間の人為的な営み――たとえば言葉の使用法の約束――に先立つ自然性をもっているからです》 これは、この問題の表面的な前提としてまず述べられる。
《しかし本当に厄介なのは、「実際に言語が流通する場」とは何か、それはいったいどこにあるのか、です》
言語が流通する場を、《意味の両替場》とも呼ぶ。(この「意味の両替」という表現によって、話の焦点が見えてきた気がした)
意味の両替とは。たとえば――。《目に見える像としてのリンゴ、他人の発する「リンゴ」という声、私の内語(心の中での独り言)としての「リンゴ」、そして物理的な対象としてのリンゴ。これらの〈リンゴ〉はどれもまったく似ていませんが、しかし私はこれらの〈リンゴ〉をすべて同じ〈リンゴ〉として解釈しています。言い換えるなら、ある映像や音声や物体をすべて、同じ〈リンゴ〉として「両替」しているのです》
《千円札紙幣一枚と百円玉十枚はまったく似ていないのに、同じ〈千円〉として両替されます。千円札紙幣一枚も百円玉十枚も、千円そのものではありません。千円そのものは、貨幣のような実体としては存在しません》
では、〈リンゴ〉や〈千円〉はどこにあるというべきか? 《……〈リンゴ〉についての両替のすべては私秘的な世界で行われています。両替の場は、私の心の中にあるのです。》
これは一つの立場でしかないのかもしれないが、それはそうとして、次のことが重大だと思わされた。だとしても《私は不正な両替を好き勝手にできるわけではありません》
言い換えれば、《私はつねに、いま正当な両替と思われるものを、いわば受動的に続けることしかできません。「正しい両替だと私が思えば正しい両替になってしまう」としても、そこに意図や恣意性はないのです》
ではこの私的言語感を拒絶するとしたら、どうなるか。《意味の両替場は心の外に置かれます》。私秘的な経験の最たるものと思える〈痛み〉もまた、私秘的な場ではなく公共的な場で実行されることになる。ここには行動主義の心理学への接近がある。
しかし著者は、これでも決着はつかないと考える。
《痛みの感覚は非公共的であるのに対し、痛がる行動は公共的である、というわけですが、だれにとっても同じ〈痛み〉として両替される行動などあるでしょうか》
《私たちはこの次元においてこそ、規則解釈の問題を熟慮すべきです》《子どもの身体行動が心の外の現象だからといって、だれもが一様に「子どもが痛がっている」と解釈するような特定の行動などありえないのです》
それなのに、意味の両替所を公共的空間にもってきて、つい安心するのは、公共的空間が物理的空間だからだ。《この素朴な信頼の源は、明らかに自然科学にあります》《ある行動が、だれにとっても観察可能であり、だれにとっても同じ行動として理解されるのは、行動の同一性が物理的同一性に基づいているからです》
そうだったのか、物理学万歳、自然科学万歳! …で終わるわけはもちろんない。これでも直面している問題は見えてこないと著者は言いたいのだ。
行動主義的な戦略がどうしても決定的なものになりえないことは、そもそもウィトゲンシュタインの『探究』は予見していた。
つまり、《〈痛み〉の両替の根底には、〈痛み〉の言語ゲームの実践における私たちの無根拠な一致があり、その一致の理由を他の何らかの同一性判断をもとに説明することはできないのです》
《ここにはまさしく言語の限界に関わる問題があります》
《〈痛み〉に関して言うなら、同じ〈痛み〉として両替される貨幣――たとえば痛がっている行動や「痛い」という音声――は、ある実践の一致によって、そのような貨幣となりえています。でも、その実践の一致とはどのようなものかと問われれば、〈痛み〉についての、と言わざるをえません。さまざまな〈痛み〉の貨幣がどれも同じ〈痛み〉の貨幣であるのは、何らなの類似性によるのではなく、それらが同じ〈痛み〉の貨幣として両替されている実践があるからです。》
というわけで、袋小路にまた戻ってきてしまった?
この時点での私の理解を私なりの表現にするなら――。実践は物理世界で成立し、意味は言語世界で成立している。意味というのは曖昧だから、実践という明白なものを拠り所にしよう。しかし待てよ、実践という物理世界が「自然な世界である」という感覚の拠り所は何だっけ? 物理学が自然であることを基礎づけるのもやっぱり言語や論理なのだが、その言語や論理はそもそも底が抜けていたんじゃなかったっけ? 自然の一致(実践の一致)も言語の一致(意味の一致)も、それが何なのかを、表現することは結局どうしてもできない。
そして、「因果」ということも、私たちのものの見方の根底にあるが、その拠り所を示すのは難しい。「一致」と同じ構造的な問題だと著者は言う。「因果」は自然科学を支えるが、「因果」を支える原初的自然を支えるものは、自然科学の実践を通して示されるほかはない、という事態になろうか。
《結局のところ、原初的自然に訴える議論は、非原初的な記述のもとでしか、理解可能な説得力をもちません。行動の次元で〈痛み〉のゲームを記述したり、恒常的連接の次元で〈因果〉のゲームを記述したりすることで、それらもまた自然と呼びうる何らかのものの描写になっていると感じさせるほかないのです》
さあどうする!?
著者はいわば、自然科学がまさに自然と感じられること自体のうちに、なにがしかの基盤を見出そうとする。袋小路が行き止まりならそこが終点と思うしかない、ということになろうか。
《現在の私たちにとっては、自然科学の世界こそが自然と呼びうるものの筆頭であり、とりわけ物理学的対象についての厳密かつ公共的な同一性の規定は、その貨幣としての信頼性を著しく高めています》
ここで「同一性」というキーワードが現れる。そして私にとってきわめて興味深いことに、素粒子の同一性というものがもちだされる。言語の意味を探し求めて長い旅をしてきた人が、もうひとつまったく別の果てしない旅を続けていたはずの人と、図らずも出会う!
この、素粒子の同一性というものは、たとえば赤血球の同一性や米粒の同一性などとは決定的に違うということが核心にある。
《たとえば今日の知見によれば、各種の素粒子には個性(個別性)がありません。ある電子と別の電子との間に質的な違いはまったくありません。自然科学全体においても、これほど厳密な同一性が認められるのは、物理学だけでしょう》
《ドイツのある実験室の電子が、日本の別の実験室の電子と別のものである可能性は考慮されません》
私なりの感想を言うなら、理論物理学とはイデアの話をしているようであり、自然科学というよりは数学や哲学の仲間だとしか思えなくなるのだが、それはそれとして。
次の記述が結論というべきか。
《原理的に考えるならもちろん、規則解釈の懐疑はどこまでも可能であり、たとえ対象が電子であっても、「+2」のような事例は想定しうるでしょう。ある日突然、何が電子であるかの判断が各人ばらばらになることも想定可能ではあります。しかし人間の本性は、そのような想定をある段階で無価値と見なす傾向をもっており、その傾向の公共的かつ原初的な一致が、今日の科学を特別なものにしています。つまり、自然とは科学的自然のことであると人々が考えるにいたった過程自体が、非原初的にしか表現することのできない原初的な自然誌(自然史)の一部なのです》
だいぶ前に読んだ、科学的実在論の分析における「帰納」の位置づけに似ている。
→ http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20050304/p1
なおこの結論は、前章の最後に予告されていた。《科学的自然と切り離された原初的自然は自然と呼ぶに値せず、原初的自然と切り離された科学的自然もまた同様でしょう。言い換えるなら、科学的自然も原初的自然も本来は存在せず、それらが分離される以前の、一つの自然だけが存在することになるでしょう》
*
きょうはこれぐらいで勘弁してやろう(自分に)
講義7(可能世界)、講義8(心の哲学)、講義9(時間論)は未読。またいつか。