東京永久観光

【2019 輪廻転生】

言葉は万能!(でもいつ出現した?)


ツイッターとかに目と頭が常時接続する毎日だと、あらゆることは「そうか言葉で表されるんだな」ということに改めて気づかざるをえない。もっと仕事にも接続しろよと思うが、仕事は仕事でものごとの白黒をはっきりさせるにはこれまた言葉(メールなど)が大変有効だったりする。

言葉のこの使い勝手のよさは、ただそのように「何十年もひたすら毎日使っている」からにすぎないのかというと、やっぱりそう単純ではなく、言葉というのは、なにかこう「世界の事象のすべてを覆い尽くせるような仕組みにもとからなっていたのではないか」という気がしてくる。

さらに昨今の言語状況としては、やはり、目に焼きつく文字をこれほどまでにスイスイと入力できコピペでき共有できるという、この変化は甚大だ。「なんでもかんでも言葉にできるよ」という思いはそこから来るし、もはや140文字もあったら、相当のことが言えるし、相当のことが読めてしまう!

我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使する

これも140字ちょうどだった!

アリの入るすきもない!

安倍政権批判したかったのではないので話を戻すが:

言葉はまるで計算式のごとくものごとを描写する、という実感がある。とはいえ、もしも文章が本当に計算式と同じなら、計算式が正しいか正しくないかのどちらかしかないように、文章もまた正しくか正しくないかのどちらかしかないことになる。

でも実際、言葉というのは、その使い方のルールに曖昧なところなんて実はほとんどないんじゃないか! ということを最近強く思うのだ。

たとえば「必要最小限度の実力を行使する」という言葉を言えば、そこに伴う意味は相当きっちり決まる。一方たとえば、赤い絵の具を100平方cm塗ったすぐ右横に青い絵の具を200平方cm塗ったからといって、なにか意味がきっちり決まったりはしない。少なくともそんな使い方はされていない。

だからこそ、この前のようにエドワード・ヤンの映画なんかをみると、言葉のガチガチの縛りからふっと逃れ、風景だけに頭と目をゆだねればよい時間が流れるので、ものすごく新鮮で安楽にすら感じるのだった。(http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20150319/p1

さてまた言語万能の話に戻るが:

忙しい日が続いてストレスがたまるのも、言いたいことはいつでもスイスイ言えるネット環境から離れることによるフラストレーションが大きいように思う。ツイッターでもブログでもメールでも、このように思ったことをそのまま吐き出せるのは、なにしろ大事なのだ。

心理療法認知行動療法が注目されているけど、結局そんなところに核心があると思う。自分の心のなかをとにかく言葉に表してみると、言葉はそもそも正確さを要請してしまうので、その自分の言葉の曖昧や誤用を知ることを通じて、自分の心のいわば「曖昧や誤用」に気づかざるをえない、という要領!

しかしながら、「そもそも心に誤用はあるのか」という問いが重要になる。あるいは、心であれ体であれ「不健康は悪」なのか、と。

そうしてまた、「心に誤用はあるのか」なんていう問いを通じて、「言葉に誤用はないという前提で考えてきたけど、それは本当なのか、本当だとしたら、その不思議な性質は、たとえば言葉のいかなる成り立ちに伴って生じてきたのか」という問いが浮上する。

今も1年半に1回くらいは、夜寝入る前や朝目覚めた後に、「まったくなにもないのではなく、なぜなにかがあるのか」というおなじみの根源的な問いが浮かび、しみじみするのだが、「言葉がないのではなく、なぜ言葉があるのか」という問いもまた相当に根源的な問いなのではないか。

なにしろ少なくともこの地球上には、ほんの10万年くらい前まで、言葉は1つもなかったはずだ。1億年前には恐竜は大勢いたけど言葉はたぶんなかっただろう。火星や土星の衛星エンケラドスにおいてかつて水は流れたかもしれないが、文章はやはりただの一筋もまだ流れていないだろう。

凄いよね!


ついでにもう1つ。ずっと気になっていた日経サイエンス量子力学特集(2013年7月号)をやっと読んだが、量子力学の計算式が人間感覚の世界像にはどうしても合わないことの裏返しとして、言語のしくみ(言語という計算式)は人間感覚の世界像にあまりにも合いすぎているんだなあと感心する。(http://www.nikkei-science.com/201307_034.html


そしてまた感心してしまうのは、きまぐれにのろのろと言葉を1つ書き出すと、それは2つになり3つになりついにはこのようにどんどん続いて止まらなくなることだ。この性質はむしろ心の性質に拠るところが大きいだろうが、言葉もまた(ちゃんと意味を重ねつつ)際限なく続くことができるおかげ。


どうせなのでもう少し続ける。

人間とか恐竜とかバナナとかコーヒーとかは消えることがあるが、結局すべての宇宙のエネルギー量はこれまでもこれからも絶対変わらないことになっている。でも言葉は、宇宙になかったものが増えたわけだから、その類には入らないことになる。

しかも音声や文字は物質的な媒体とともに消えても、言葉自体は消えないと言いたいきもする。要するに、言葉は情報だ。情報というのはエネルギーとかの類の世界とはぜんぜん交わらないものということになるのか。

ともあれ、現在までに生じた言語が担っているいずれの情報も、言語が生じるまでは存在しなかったのだとしたら…。この宇宙では、情報とは新たに生じるものなのだろうか?(エネルギーとは異なって)。これは「いったん生じた情報はもう消えないのか」という問いと並んで刺激的な問いだ。

エントロピーにおける「情報」と、言葉が担う内容という意味での「情報」は、また異なる話なのだろうか。

もし言葉などが担う情報の量もまた、エネルギー量と同じくこの宇宙において不変なのだとしたら…。私がここに垂れ流す言葉を増やせば増やすほど、宇宙の他のどこかで他のだれかが垂れ流す言葉は減らなければならない。そうだったら面白いがとても厄介だ。でもまあ国際世論とかは実際そんな感じ。

それにしても、さっきちょっとおかしなことも述べたかもしれないので、こうなったらどんどん話を膨らませていって、もはやそんなことは煙に巻いてしまおうという戦略がとれるのも、言葉がただの計算式にはとどまらない美点だ。


*続く→http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20150406/p1