東京永久観光

【2019 輪廻転生】

寒いとしか言いようがない


さむい。

この単語はかくも単純(たった3文字)。それなのに、「さむい」は、この世界の複雑な出来事をもののみごとに表現する、ように思われる。これは何故だろう。なにかおかしくはないか。

実際、「さむい」に当てはまる、この世界の事実というか、この宇宙の物理的化学的現象というか、そうした出来事の方は、とてつもなく複雑だろう。情報量として3文字(2バイト×3)どころじゃない。

そんな複雑な、今日の東京の風のようすや、今日の福井の雪のようすを、思い浮かべたり、指し示したり、伝えたりするのに、我々はどうするかというと、「さむい」の3文字を並べてみる。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
俵万智『サラダ記念日』 http://gtpweb.net/twr/sakuhin.htm

もちろん、世界や宇宙が複雑であるだけでなく、言語それ自体も複雑なのだ、と言える。

「さむい」は「あつい」とセットであったり、「冬」や「風」や「雪」とセットであったりする。「体が寒い」ことも「心が寒い」ことも「懐が寒い」こともある。さらには、「さむい」を口にしたり耳にしたりすると、上にあげた短歌などが思い浮かぶ人もいるだろう。とはいえ、たとえばバンコクなら「冬は寒くない」ので、「寒いね」と話しかけても「短パン」の人のいる暑苦しさ、というかんじだ。「西瓜」も1月の季語。

 
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複雑さはどこに在るのだろう? ――このことを最近よく考える。世界や宇宙がそもそも複雑なのか? それとも複雑さは言語こそがもたらすのか?

もしかしたら、世界や宇宙は単純でも複雑でもないのに、ただ言語の複雑さに引きずられて複雑になっただけということは、ないのか。(まさか、そんなことは…)

やっぱり、まったく逆に、言語はきわめて単純な組み立てでしかないのに、それを当てはめた世界や宇宙のほうが複雑だから、言語自体が複雑に見えるだけ、ということなのか。(これはありそうに思われる)

「寒い」や「冬」といった単純な単語、あるいは、「寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあたたかさ」という単純な短歌が、とても複雑ななにかを醸し出すのは、ひとえに世界や宇宙のほうが複雑だからである、と。

(今使った「醸し出す」も、その単語が絶妙に作用していると感じるなら、アルコールを醸造する化学反応や作業が絶妙であるおかげだ、ということ)


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では、さらに問う。この複雑さに、脳はどのように絡んでいるのだろう? 

脳のニューロン神経細胞)もまた非常に複雑なネットワークを組み上げる。私が「さむい」と口にしたり耳にしたりするとき、私の脳内ネットワークは非常に複雑な動きをしているはずだ。「今日の東京は寒かった」という文章なら、いっそう複雑だろう。

そして、ここでどうしても踏まえておくべきは、こうした脳内ネットワークの途方もない複雑さが無ければ、世界や宇宙の途方もない複雑さを、私は知ることができないだろうということだ。

しかし、脳の途方もない複雑さは、べつに、世界や宇宙の途方もない複雑さと、直結しているわけではまったくないだろう。たとえば、<世界の戦争>という複雑な物事を理解するとき、脳もまたたしかに複雑な動きをするだろうが、だからといって、ニューロンネットワークがたとえば戦闘機や爆弾の動きにぴったり応じたような動きをしているわけではない(と思う)。

こうした世界や宇宙の複雑さと、脳の複雑さとを、媒介するものこそが言語なのではないか。

世界や宇宙の出来事として生じている<さむい>と、ニューロンネットワークのパターンとして生じている【さむい】とが、「さむい」という3文字によって、まるで魔法のように結び付く!


とりあえず結論。


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ここからは、少しややこしくなる。

言語がただの媒介だというならば、では、人間の言語が普遍的に備えているとも言われる文法は、いったいどこに在るのだろう? 世界や宇宙に文法なんてあるのか? 世界や宇宙は、原子や分子などとは別個に、文法などという特殊な構造を隠し持っているのだろうか? あるいはやはり文法は脳にあるのか? ということは、ニューロン1個1個のパルスのレベル、あるいはニューロンのネットワークのパターンのレベル、あるいは脳の部位や皮質といったレベル、それらのどこかに、文法と同等の特殊な構造が本当に隠れているのか?

もし、言語の文法が、世界や宇宙にも脳にも無いのであれば、言語の文法は言語そのものの中で生じている、ということになる。そうなのだろうか? (いや、もはや「文法ってGoogleのなかにあるんじゃ? 辞書もあるんだし」が正解か?)

ここでいう文法が何を指すのかは、ちょっと曖昧なので、もっというなら、論理学によって浮上してきた[論理]、あるいは、数学によって浮上してきた[数]というものは、さてさて、いったいどこにあるのでしょうね。宇宙に論理や数はありますか? 脳に論理や数はありますか? 


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話はさらに横にずれていく。

そもそも言語の複雑さは、世界や宇宙の複雑さと同一ではないだろう。言語においては「さむい/あつい」はセットだ。「春/夏/秋/冬」もセットだ。しかし世界や宇宙は厳密にそのようなセットになっているとは思えない。たとえば<電子/陽子/中性子>という現象なら世界や宇宙の本質的なセットかもしれないが、<さむい/あつい>や<春/夏/秋/冬>は世界や宇宙の本質的なセットだとはかぎらない、ということ。


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以下はさらにややこしいが、実は最もスリリングに感じられること。

<赤血球>や<白血球>という物質はこの世に一応存在し、それは「赤血球」や「白血球」という言語の意味とだいたい一致している。でも、「俺の赤血球がお前の魂に入り込んで燃え尽きるのだ」といった詩の言葉に当てはまるような、現実の<赤血球>や<魂>は世界や宇宙のほうに実在しない。

言語はどうしたって宇宙と完全には一致できないというべきなのか。たとえば、単語「雪」はまったく変化しない記号だが、現実の「雪」は際限なく多彩だ。雪にかぎらず現実の物質や現象はすべて際限なく多彩なので、固定された言語とはそもそも別物だよ、というべきなのか。

ところが。たとえば「直線」という単語はどうだろう。あるいは「クオーク」という単語はどうだろう。これらについては、現物の<直線>や現物の「クオーク」がそもそも実在しないともいえる。そうすると…。「直線」や「クオーク」という単語は、なるほど現実の<直線>や<クオーク>には対応していない。しかし! 「直線」や「クオーク」という単語は、実在か非実在かよくわからない[直線]や[クオーク]という何ものかには、もしかしてぴったり完全一致しているのではないか???


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…こんなことで、今年もよろしくお願い致します。