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【2019 輪廻転生】

無限の始まり/デイヴィッド・ドイッチュ

 
 


「言葉はすべてのことを言い表せるのか」という疑問がずっとあるが、言葉を使えば使うほど「それはできるんじゃないか」という実感は強くなる。これは「数学はすべてを計算できるんじゃないか」という実感とも似ている。そうして私は「人間の知性の万能性・汎用性」みたいなことについて、近ごろよく考える。

さてこの本は、まだ第3章までだが、一言でいうと「人間の科学と知性が万能であること」を広範に丁寧に論証する一冊だと思われる。副題は「ひとはなぜ限りない可能性をもつのか」。そして、人間の知性だけがなぜ万能かといえば、それが「説明をする知性」だからということになる。今のところ理解でき納得させられることがほとんどだ。

第3章では2つの主張が取り上げられる。「人間は宇宙の浮きカスにすぎない」と「宇宙はわれわれが想像できないほど風変わりだ」。それぞれホーキングとドーキンスの主張だが、著者はこれを完全否定することで自らの確信を際立たせる。

「人間が宇宙の浮きカスにすぎない」を覆す主な論拠は、《低温で、暗く、何もない。そんな想像を絶するほど荒涼とした環境》が宇宙では典型的であること。それにひきかえ《人びとは、宇宙的な枠組みのなかで重要である》というもの。

ドーキンスへの反論はけっこう複雑。

まずドーキンスの弁。「私は、秩序ある宇宙というのは人間の先入観とは無関係であり、当てにならない場当たり的な手品でごまかされている宇宙よりも、ずっと美しく素晴らしいものだと考えている。その宇宙では、すべてのものが説明可能なのだと思う。たとえばわれわれがその説明を見出すまで長い距離を進まねばならないとしても」(『虹の解体』福岡訳)

対する著者の弁。

《「秩序だった」(説明できる)宇宙が、より美しいのは確かだ。ただし、宇宙が秩序だったものであるためには「人間の先入観とは無関係」でなければならないという前提は、平凡の論理に関連した誤解だと言える。
 世界は説明不能だという前提はどれも、非常に悪い説明にしかならない》

よく噛み締めるとものすごい意見だ。なおこの前提として著者は、「平凡の原理」はなにかとゴマカシが多いと感じている。

《この原理は、あらゆる種類の偏狭な誤解のなかから、人間中心主義だけを特別な非難の対象として選び出しているので、平凡の原理自体が人間中心的だと言える》《また、平凡の原理は、あらゆる価値判断は人間中心的であると主張しているが、「平凡の原理」そのものが、「傲慢さ」「単なる浮きカス」、そしてまさに「平凡」といった、価値を負った用語によって表現されることが多い》

(引用しても、結局ややこしかった)

ともあれ、ホーキングとドーキンスの《両者に共通しているのは、異質で非協調的な宇宙のなかに埋め込まれた、人間にとって快適な小さい「泡」の概念だ》

宇宙はわけのわからないものでは断じてない。人間はどうでもいいものでは断じてない。――ということになる。

かくして著者は以下の結論に至る。

あらゆる物理的変換現象は、次のどちらかになる。
自然法則で禁じられているために不可能である。
・適切な知識があれば、達成可能である。

そして「物質・エネルギー・証拠」の3つだけがその要件だとも言う。


――さてさてこの本、先はまだまだ長い。しかもこの、宇宙のというか日本の東京の片隅の1個の浮きカスさんは、またちょいと忙しくなってきた。


無限の始まり : ひとはなぜ限りない可能性をもつのか

無限の始まり : ひとはなぜ限りない可能性をもつのか


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先日「おまえのゲノムでは無理なのだ」として、マーク・ハウザーの「人間の知性の限界」に関する見解に触れたが、ドイッチュはこの見解にも反対するのだろう。→http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20131109/p1



 =以下、巻頭「はじめに 進歩に終わりはない」からのメモ=

《人類の歴史上、それとわかるほど急激で、かつ何世代にもわたって続くほど安定的な進歩は、ただ一度しか起こっていない。それが始まったのは科学革命のころで、現在も進行中だ。》

《本書で私が主張するのは、あらゆる進歩は、理論上と実際上のどちらの進歩であっても、それはある一つの人間活動、つまり私が「良い説明」と呼ぶものの探究によって生じたということである。良い説明の探究というのは、他に類を見ないほど人間的な行為だが、そこからは、最も非個人的な、宇宙レベルでの実在(*「リアリティ」とルビ)に関する基本的事実が得られる。それは、実在は、真に良い説明である普遍的な自然法則に従うという事実だ。宇宙レベルと人間レベルのあいだに存在する、このシンプルな関係性は、物事の宇宙レベルの構造において人びとが果たす中心的な役割を暗示している。》

《それぞれの分野からわれわれが学ぶのは、進歩には必然的な終わりはないが、必然的な始まり、つまり「原因」や「進歩の始まりと同時に起こる一つの事象」、「進歩が始まり、広がっていくための必要条件」はあるということだ。こうした始まりの一つずつが、その分野にとっての「無限の始まり」ということになる。表面的には、その多くは互いに関連し合っていないように思える。しかしそれらはすべて、実在のある属性がもつ多様な側面であり、私はその属性こそが「無限の始まり」にあたるのだと考えている。》