生物進化と人の思考は形としては同じ。――こんな大胆な見方を著者は示す! どちらも知識を創造するプロセスだからだという。(★無限の始まり/デイヴィッド・ドイッチュ asin:4772695370)
知識? すなわち、生物進化では、環境への適応を担うのは遺伝情報として蓄積された知識だと見るのだ。さらに、人間が推量と実験によって知識を生み出すように、遺伝子も突然変異という推量と自然選択という実験を繰り返して知識を生み出している、というふうにまとめる。
こうした観点は独創的なのだろうが、堂々たる主張を読んでいるとなんだか当たり前だったようにも思えてくる。(あるいは、こうした議論においてはホントに常識なのか?)
さらに読んでいくと、進化というものの見方こそが、さまざまな事象にきわめて広く当てはまる原理であり、むしろ、生物の実際の進化や人間の知識はどちらもその1例にすぎないのだ、という思いに至る。まるでインフルエンザが治っていく時のような体と心のすがすがしさを覚えた。
上記の破壊力がスゴすぎるので、ややかすんでしまうが、ドーキンスが「利己的な遺伝子」という表現で示したことも著者は実にあっさり言い換える。「利己的な遺伝子」の意味がこれでやっと理解できた気がした。要するに、「進化した生物のほうが必ず適応的だ」と思うのは誤解だよ、ということだ。
これについては少し引用――
《ドーキンスが、ネオダーウィニズムについて自らの巧みな説明を、「利己的な遺伝子」と名づけたのは、進化は種やそれぞれの生物の「幸福」を増進するものではないことを強調したかったからである。しかしドーキンスも説明しているように、進化は遺伝子の「幸福」も増進してはいない。進化によって遺伝子が適応するのは数多くの遺伝子が生き残るためではない。実際、生き残りのために適応しているのではない。それは単に、ライバルの遺伝子、特に自分たちとわずかに異なる変種を犠牲にして、自分たちが集団に広まるためだ》
《これに関連する誤解は、進化はいつでも適応的だという考えだ。つまり、進化はいつでも進歩をもたらす、あるいは少なくとも、有益な機能に何らかの向上をもたらして、その機能を最大化するように作用する、という誤解である》
《…遺伝子が何をすることに適応しているのか――自らのどんな変種よりも得意とすることは何か――ということは、その種や個体とは無関係だし、その遺伝子自体の寿命の長さとも関係はない。遺伝子というのは、ライバルの遺伝子よりも多く、自らを複製することに適応しているのだ》
結局の結局、「生き残った個体だけが遺伝子を残せる」という原理がすべてなのだろう。いやそれは原理というほどエラそうなものですらない。進化論とは「太陽は東から登るから西に沈むのだ」とか「体重が増えるから肥満するのだ」とかのトートロジーすれすれの話だ、ということに私は改めて賛成の賛成。
これらは第4章「進化と創造」にある。さらに宇宙定数の微調整をめぐる人間原理という説明の怪しさについても論じられる。これは熟読玩味中だが、人間原理もまたトートロジー的だ。
というわけで、この本は、トートロジーっぽいがゆえに曖昧だった科学トピックを、ことごとく一刀両断・明瞭整理していく一冊なのだろうか? 先はまだまだ長い。
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第4章を最後まで読んだ。宇宙定数が生物や人間が誕生できる値に微調整されていることの説明として人間原理は不十分、というのがやはり著者の見解。私が思うに、人間原理は宇宙定数が微調整されている理由の1つではありうるが、宇宙定数がまさにこの値に微調整されている理由にはもっと良い説明が必要、という見解だろう。
章の最終節「世界はとてもシンプルだから、理解できない」では、宇宙の良い説明がいかなる様相をもつかの予測を書いている。
《ジョン・ホイーラーの言葉を借りれば、それは「非常にシンプルなアイデアなので、われわれはみな、これ以外にはありえないと言い合うだろう」ということになる。別の言い方をすれば、問題だったのは、世界があまりに複雑なので、世界が現在のように見える理由を理解できない、ということではない。世界は非常にシンプルなので、われわれは理解できないのだ。しかしこのことについては、後から振り返ってみないと気づかないだろう。》
なぜ生物がこうなのかという謎は、ダーウィニズムによる説明だけが、簡単に思いつくものではなく、わずかに変更することも難しい説明であるがゆえに、良い説明だと言える。それと同じように、なぜ宇宙物理定数がこうなのかという謎も、実は非常にシンプルな説明があるに違いない。人間原理的な説明はそれには値しない。――という主旨のようだ。