野矢茂樹が、認知言語学とはいかなる学問かを、その専門家である西村義樹に一から教わりながら、どんどん突っ込んでむしろ自身でスパっとまとめ、二人で大いに納得するという一冊。速い、うまい、易しい。
最初に、認知言語学の言語学における位置づけやチョムスキーの生成文法との確執がさっくり紹介され、有益だった。認知言語学の始祖としてはレイコフやラネカーなど複数が挙げられるという。現在の言語学の始まりがやっぱりソシュールなのだというのも驚きだった。
認知言語学の最重要キーワードの1つと思われる「プロトタイプ」をめぐる第3回は、とても勉強になった。
たとえば「鳥」という言葉を使うとき、我々はペンギンやコウモリではなく もっと一般的な鳥をイメージするが、そうした鳥の典型例や模範例をプロトタイプと呼ぶ。そして「鳥」という言葉の意味というなら、プロトタイプ的な鳥の意味が中心にあるが、プロトタイプ的ではない様々な鳥の意味も周辺にあり、それらが重なったファジーなものだろう、といった話。だから「鳥」という言葉をスムーズに使うには、鳥に関する百科事典的意味を備えている必要がある、ということにもなる。このことは、我々がこの世界をどのようにカテゴライズするかに関わる。「鳥」というカテゴリーは古典的には必要十分な条件で規定できるとみたが、認知言語学ではカテゴリーはもっと曖昧なものになるのだ。ウィトゲンシュタインが家族的類似性と言ったのと同様。
これらを受け、野矢は、どの言葉にもその言葉にまつわる「物語」があるのだと言う。
《私としては意味に関わる事実を「典型的な物語」と呼びたいんですね。たとえば「犬」という後の意味に関わるプロトタイプ的事実というのは、四本足で、ワンワン鳴いて、ノラ犬もいるけれど多くは飼われていて、しかも、ふつうの犬はふつうの人にふつうに飼われている、等々です。そして、犬に関する典型的な物語の中では飼い主も典型的な飼い主じゃないといけない。典型的な餌をもらい(ぼくが子どもの頃はご飯にみそ汁をかけてものとかもらってましたけど、いまはペットフードでしょうね)、室外犬なら典型的な小屋を与えられている。こうして、典型的なもので埋め尽くされた典型的な世界が「犬」という語に込められるんですね。「犬」という語の意味を理解するということは、このような典型的な世界を了解することを含むというのが、私の考えです。これは、プロトタイプ意味論から離れてはいませんよね?》
西村は同意し、《それは『語りえぬものを語る』(野矢茂樹、二〇一一年)で論じられていることですね。それを読んで、プロトタイプの一番いい説明になってるなと思いました》と応じている。野矢の本にいつも深く納得するのは、やはりこうした深い背景を備えてこそなのだと、改めて感動。
第5回のメトニミーをめぐるレクチャーも斬新だった。
メトニミー(換喩)とは、赤ずきんを被った女の子を「赤ずきん」と呼ぶようなレトリックのことだが、認知言語学ではもっと幅広い表現を含める。たとえば「電話が鳴る」「電話をとる」も、鳴るのはベルだが「電話が鳴る」、とるのは受話器だが「電話をとる」と表現することからメトニミーだとみるのだ。さてメトニミーとは何か。ラネカーは「参照点とターゲット」という分析をしたが、西村は改良して「フレームと焦点」という分析をする。たとえば「電話が鳴った」と「電話をとった」は「電話」というフレーム(=百科事典的知識のこと)は共通だが、焦点化される側面が違うというのだ。
これを受け、野矢は、やはり物語というキーワードを用いて整理する。
《「電話」ということで呼び起こされるフレームは、もちろん文字通り百科事典に載っているような知識でもあるでしょうけど、時間の流れにそったストーリーもそこには含まれている。私だったら「物語」と言うところですが、つまり、誰かが何か伝えたいことがあって、まずこちらの電話番号を押す。すると、こちらの電話機が鳴って、こっちの人間がその受話器をとる。その後、電話を通じてなんらかのやりとりがあって、終わったら受話器を置く。そういうストーリーです。それで、焦点を当てられるのは、電話機という物体のどの部分化というよりも、むしろこのストーリーのどの部分かということの方が、この場合だいじなんじゃないでしょうか。「電話が鳴る」だと、呼び出し音が鳴った場面に焦点を当てる。「電話をとる」だと、その受話器をとる場面に焦点を当てている。しかしどちらも電話のストーリー全体をフレームとして呼び出しているので、「電話が鳴る/電話をとる」という言い方をする》
ここから改めて思ったこと。フレームと焦点という形式を使ってものごとを捉えるのは、カテゴリーやプロトタイプと並んで、そもそも我々の認知一般の大きな特徴だろう。すると、我々の言語が我々の認知を反映しているとしたら、メトニミーはただのレトリックを超え言語の形式の核心をなしているのかもしれない。
さてそうすると、我々はものごとを必ずメタファーとして捉えると主張したレイコフが当然思い出される。それは第6回にて。
西村《レイコフとジョンソンは「いや、メタファーってのはすごく本質的な、しかもいたるところに見られる遍在的な現象であって、なおかつ、言語だけの問題ではなくて、言語を使う人間の概念体系の中にメタファーがあって、あるいは、メタフォリカルな概念があって、それによって人間の概念体系の大部分が成り立っているんだ」、みたいな主張をやったわけです》《そういう意味では、やっぱり革命的だったと言っていいと思います》
しかし野矢は、レイコフは大雑把すぎると見ているようだ。
野矢《あんまりこれ、「言語学」って感じがしないんですよ》《とてもカント的な感じがするんです。カントは、さまざまなカテゴリーを通してわれわれはものごとを捉えていると考えるわけですね。たとえば、「因果」というカテゴリーを通してものごとは原因と結果の関係をもって捉えられる。それと同じような、認知の枠組のあり方をレイコフとジョンソンは取り出して、しかもそこにメタファーの構造を見てとる。そういう意味で、カント的なメタファー論だと言えると思うんです》
そのとおりだろうし、だからこそレイコフはスゴいと私は思ってきたのだが……
ところが野矢は、レイコフが言うようなメタファーの法則があらゆる表現に当てはまるわけではないことを重くみる。
野矢《ある表現がどうして成り立っているのかを説明することはするんだけれども、やってることはけっきょく「後知恵」で、けっして一般原理や法則のようなものではない。「雨が上がる」は〈雨が止む〉という意味であって〈雨が強くなる〉という意味じゃないということを、概念メタファーは説明できないわけです。自然科学だったら、観察された現象を説明することによって未知の新しい現象を予測できたりするのだけれども、概念メタファーの議論には、そういう予測能力はない。だけど、それはけっして悪いことではなくて、そういうものなんだと思うんですね》
野矢《簡単な話、川端康成が「夜の底が白くなった」と書いたとき、「それはこれこれの概念メタファーに基いて書き出されたのだ」なんて解明することはできないだろうということです》《そりゃあ、概念メタファーによる説明が文学的メタファーにはまったく不可能だなんてことはないでしょう。だけど、全面的に可能だなんてこともありえないと思うんですね。そしてそれは慣用的なメタファーでも同じで、程度問題だと思うんです》
こんなことも言う。
野矢《言語学が科学たろうとすると当然規則性・法則性に焦点を当てますよね。だけど、メタファーの場合には創造性が決定的に重要だと思うんです》
要するに。野矢《現実に言語というのは固定的な体系ではないわけです》
つい忘れているけれど、確かにそうだ。固定的でないものに固定的な法則を見つけようとしても無理がある。
(しかしそうすると、野矢の専門というべき言語哲学はどうなのだろう。言語哲学もまた言語の法則を見つけようとしているのではないとしたら、いったい何をしているのだ?)
それと、メタファーが言語の創造性に大きく関係する一方、言語の法則性に大きく関係するのはむしろメトニミーかもしれないわけで、俄然メトニミーに興味がわいてくるのだった。
さてさて、ともあれ「認知言語学ってすこぶる面白い」と改めて感じた一冊だった。ただし同時に、認知言語学のなんとなくの物足りなさもまた改めて感じてしまった。どういうことかというと、認知言語学は「人間の言語を分析することで人間の認知の法則を見出す」というより、けっきょく「言語表現そのものを分析して言語表現の法則を見出す」ことにかまけすぎではないか、との疑問もわくのだ。実際どうなのだろう。
<関連エントリー>
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