東京永久観光

【2019 輪廻転生】

サハリン体験記(4)


ユジノサハリンスクから乗ったバスで、隣に座った人が「日本人ですか」と話しかけてきた。曹さんという朝鮮系の男性。30分ほど話を聞いた。20世紀東アジア史の縮図みたいな人生だった。


1940 朝鮮半島北部に生まれる。
1943 両親とともにサハリンへ。
     「徴用といいましたか。わかりますか」
1945 ソ連によるサハリン占領。
     以後、サハリンに定住。
     同郷の人と結婚。子供3人をもうける。
     仕事は主にクレーン車の運転。
     「ロシア人はどうですか?」
     「何十年も一緒に住んでいますから…」
     子供たちは朝鮮語を話さない。
     しかし食事はそろって朝鮮料理だという。
2006 韓国に移住。日本政府による帰国事業の一環と思われる。 
     以後、仁川に家を持ち、妻と二人で暮らしている。
     「どうして帰ったのですか」
     「そりゃ私は朝鮮人ですから」
     現在はロシアと韓国の二重国籍。子供たちは今もサハリン。


年金のようなものを毎月900ドルもらえるという。日本政府による支給かもしれない。でも「家のローンが毎月400ドルだからきついですよ」

今、息子の家を郊外に建てており、その用事でサハリン滞在中だった。家は200万円程度とか。では「物価は韓国とサハリンでどうですか」と聞くと、「もちろんサハリンのほうが高い」と即答した。

私の今回の旅行には、過去の日本をたどるという動機もないわけではなかった。だから曹さんと会話できたことは、とても幸運だった。サハリンとはいかなる土地なのか、いくらか知ってはいるが、ひとつ具体的なストーリーとして思い描くことができた。

曹さんは照れくさそうに話しかけてきたから、本当はもの静かな人なのだろう。でも昔のことをニコニコとなんでも教えてくれた。かつて支配者だった日本のことを、ソ連がやって来たら「みんな帰りました」という日本人のことを、どのように眺めてきたのか、よくはわからない。でもきっと、懐かしいという思いが一番大きくて声をかけてくれたんじゃないか。

バスはドリンスクという町に向かっている。車窓には草原や雑木林が広がる。昔はここでジャガイモやキャベツを作ったものです。そう話す曹さんは、建築中の息子の家があるというバス停で降りていった。


 *


ドリンスクはユジノサハリンスクから1時間ほど。さらにバスを乗り継ぐと20分ほどでオホーツク海が見えてくる。スタロドゥプスコエという小さな町がそこにある。


どうしてスタロドゥプスコエに来たか。宮沢賢治がかつてここに来たからだ。そのことが『地球の歩き方』に書いてあったからだ。人はふつう他の人がすでに旅行したところしか旅行しない。


宮沢賢治のこの話は以前も書いた。
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20100928/p1
 人生の輝きとは北国の夏のごとく短い間のなにかではないか


賢治は、岩手から北海道そして北海道から日本領だった南樺太へと、鉄道と船を乗り継いで渡っている。それは「永訣の朝」の妹トシを追悼する旅だったという。この旅で「銀河鉄道の夜」の着想を得たかもしれないという。おまけに教え子の就職相談もしたらしい。へえと興味を引かれる点がいろいろある。

とはいえ、それが私に何の関係があるかというと、よくわからない。ただ、人はふつう旅行する理由がまったくないところは旅行しない。

ともあれ、宮沢賢治は当時「栄浜」と呼ばれたスタロドゥプスコエにやって来た。当時の鉄道の最北端だった。私もここまでやって来た。


 *


今はもうスタロドゥプスコエに鉄道は通じていない。その跡地をどうにかこうにか探し当てた。枕木だけが辛うじて残っていた。



地球の歩き方』には線路がまだあった時分の大きな写真が1枚掲載されている。スタロドゥプスコエの町中で、ここに行く路はわかりませんかと、何人もの人に尋ねた。みなさん非常にたくさん喋って教えてくれるのに、ロシア語が少しもわからない私のせいで、ラチがあかない(すみません)。

だからそのつどメモとボールペンを渡し、どうか描いてください、描いてくださいと頼んだのだが、うまくいかなかった。人はふつう絵で会話せず言葉で会話する。言葉は万能なのだ。その万能の言葉がまるきり通じないとき、人はふつう泣く。あるいはあまりのどうしようもなさに、ひとり笑う。




 *


◎このサハリン旅行記はこちらに全体をまとめています。→ http://d.hatena.ne.jp/tokyocat+travelog/20120724