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【2019 輪廻転生】

だったら人間には魂も天国も地獄もあるのか? ――ブレードランナーをめぐって

「魂もないくせに」――しかし魂がないのはレプリカントだけではないね。「おれたちには天国も地獄もない。だからここで戦うんだ」――この実感はレプリカントだけでなく無神論者のものでもあるね。 (以下を視聴して)

https://twitter.com/tokyocat/status/929435781550129152
渡辺信一郎監督による前奏アニメ解禁!】「ブレードランナー ブラックアウト 2022」


さて『ブレードランナー2049』みてきたのだが…。生まれたもの(人間)には魂があるが、作られたもの(レプリカント)には魂はない、ということを、疑う余地のない前提として物語が進んだようなので、個人的には置き去りにされた気分だった。

もちろん、作られたものであるがゆえのレプリカントの悲哀こそは、1982年の前作でまさに痛切に描かれていたように思われ、今回もそれがリピートされていても、まったくかまわなかったのだが、だが今回はそれが焦点でもなく、レプリカントとは何ものなのだという問いが深まった感じもしなかった。

じゃあ何の話だったのかというと、【ネタバレ注意】ということになるが、老いぼれた男が、かつて愛した女を忘れられず、また二度と会えないはずの実の娘に再会する話なのであった! いやはやと言いたくなった私は、魂をもった人間としての資質を大いに欠いているのだろうか?

前作にも捧げられたと思われる2049年のカリフォルニアの街景は、前作に並んで最強の造形だと感じた。ハイテクなのにどこかローテクで寂れた混沌の世界も好ましかった。しかし…ここに何か未来の予言が本当に見いだせるだろうか? 悪いやつも、乗り物も、格闘も、ちょいと子供っぽくなかったか?

レプリカントの警官も、レプリカントの天使希望者も、レプリカントを道具にして世界制覇を企む社長も、みんななんかわりとふつうにおおげさなアメリカ人っぽくないか? 逆に、怪しげな役の人物は英語以外をしゃべってロシア人ぽかったりインド人ぽかったりするのは、なにかの決まりなのか?

なんというか、武器を使った戦闘という出来事は、私には映画で見るくらいしか縁がないが、世界には映画でなく日常の人も今は多い。いやアメリカですら銃で人を殺すのはけっこう日常ではないか。電波でデータをまるごと破壊してしまおうなんてのも、驚くべきことにわりと近所の国で計画されている。

何が言いたいかというと:私にとっては、レプリカントのいかにも男臭いライアン・ゴズリングやウォレスの大げさな悪魔社長より、ISの首斬り兵士とか、遠くのアフリカとかのただの人とか、金正恩とかのほうが、よっぽどわけのわからない他者であり、しかも現実にいる他者だということ。

そう、それから、近い将来にはおそらく現実になるもう1つの決定的な他者のことも、私たちは今、考えないわけにはいかない。人工知能

アナ・デ・アルマスが演じた、ホログラムのように現れる女性は、体をもたない心だけの存在であったのだけれど、彼女は(中身はからっぽと言われつつも)、体を持たないという点では、人工知能の自意識を想像するうえでは、参考になると思った。

そして、最も重要なことは、私たちが今最も先端的に実感しつつあるのは、人間様のほうこそ、きょうびは体を持て余したり体を欠いたりしているかのごとくツイートやラインだけやってるような境地を、100%嫌っているわけでもない、という点ではなかろうか。

人工知能レプリカントと戦っている場合ではなく、人工知能レプリカントの苦悩や心情を、参考にさせてもらうような状況が、わりと周囲を覆っているんじゃないか、ということだ


さていろいろ言ったが、私の目下の最大の関心事は、魂があればいいけど、もし魂がないんだったら、人間だってレプリカントとまったく同じじゃないかということだ。そして魂なんてたぶんない。

人間が生まれるというのは、このうえなく尊いものであるという感覚は消えないとは思う一方で、人間のようなものが、いつしかこの地上に出てきたというのは、苔が生えるとか、虫が湧くとか、そんなかんじのことと大差はない。苔にも虫にも魂がないのなら、人間にも魂はないのではないか?


(ちょっと補足。魂という点で最初に「レプリカントに魂はないという前提の物語だった」と書いたが、まったくそれは勘違いで、『ブレードランナー2048』は「レプリカントにも魂がありました」という物語だったとも言える。【ネタバレ注意】【ネタバレ注意】なにしろレプリカントが子供を生んだのだから。

しかし、【ネタバレ注意】【ネタバレ注意】レプリカントが子供を生んだから「奇跡が起こりました」「魂ありました!」というのは、ちょっと単純すぎないだろうか。この映画の最大の難点はそこではないか。補足終り)


さてそろそろ私なりの結論。レプリカントに魂があるように思えないのは、レプリカントは由来(人間が作った)がはっきりしているからだろう。では人間にはなぜ魂があるように思えるのだろう。この問いは、「神が作ったから」と信じない人には、けっこう考えあぐねてしまう。私の今の答えは…

レプリカントには魂がないが、人間には魂がある」と思ってしまう理由(言い換えれば、神を信じうる理由)は、レプリカントは誰が作ったか明らかなのに対し、人間は誰が作ったか明らかではないからなのだろう。(単純)


では、そもそも人間は誰が作ったのか? 「神が作った」という答は現在でも存在している。なぜそんな答が存在するかというと、本当にそう信じる人がそれなりに大勢いるからだろうが、それだけでなく、「神が作った」ということにして答を避ける人がそれ以上にものすごく大勢いるからだろう。

なぜその問答を避けるのかというと、みんな忙しいし、そんな問答にふけっても生活が向上することもないからだろう。だから「人間は誰が作ったのか」なんていう問いは避けるほうが賢明だとは言える。しかし今しもブレードランナーを楽しみ論じながらも、なおそれを避けるのが人間の知恵か?(反語)

では改めて、人間は誰が作ったのか。神が作ったのでなければ自然にできたことになるが、なぜこれほど精巧なものが自然にできたのか。一言でいえば「進化」が答だろう。白々しいからいちいち言葉にはされないけれど、これは19世紀以降では前提だろう。虫がわくように苔が生えるように人間ができた。

身も蓋もないように聞こえるのとは裏腹に、虫がわくのも苔が生えるのも人間ができるのも、考えれば考えるほどことごとく驚異的なことなので、無神論者こそ(人間は神が作ったのではなく進化でできたなどと平然とツイートするような者は無神論者)、じつは明白に敬虔なのではないかと思う。


話をどんどん進めるが―― 地球に生物みたいなものができてくるのは結局自然なことで、尊いことではあっても「まるきりわからない謎ではない」というのが、今の私(多くの私たち)の前提だろう。宇宙に地球みたいなものができてくる機序なんて、もっと謎ではない。しかしここからが本題なのだが……

では、人間を生んだ、生命を生んだ、地球を生んだ、宇宙を生んだ、この世界自体が生じたのは、いったいどういうことなのだ? すべてがないのではなく、なぜ、なにかがあるのか。これが、少なくとも私には、「まるきりわからない謎」なのだ。そこには魂や神といった発想が復活する余地がある。


(続く)


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=以下は関連の考察=

ホモ・サピエンス・ヤンキー系
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160825/p1

◎宇宙が人間のためにあるのではないとしても
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20160404/p1


=以下は『ブレードランナー』(1982)の感想

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20111216/p1