インターネットを数日も続けてできないとは、いかなる事態なのか。なぜこれほど頭がインターネットを渇望するのか。
私たちは体験を記憶しそれが集積していくことで、世界の感触(世界観と世界像)=つまりこの世が一体どんなふうになっているのか=を作り出していき、そして作り変えていく。
それは身体を通した体験であり、かつ言語を通した体験だ。
たとえば、東京に住んでいる私が初めてサハリンにやって来る。そのとき身体はいろいろ刺激を受けいろいろ反応する。その刺激と反応のまとまりとして身体はサハリンを把握する。サハリンはどれくらい遠いのか。どれくらい暑いのか。どれくらい広いのか。などなど。しかし体験はそれだけではない。
もともと私はサハリンを少しは知っている。旅行前にはガイドブックでサハリンについて調べた。北海道の近くにあること。夏もけっこう涼しいこと。列車に乗って北の方まで移動できること。などなど。要するに知識としてサハリンをいくらか把握している。そのうえで実際にサハリンに来て、サハリンについての知識を追加し更新していく。
そしてここが重要だが、サハリンにおける身体の体験も、私は、どんどん言語に置き換え理解と思考の中に組み込んでいく。
このように身体の体験と言語の体験の両方を合わせて、私はサハリンというものを総合的に理解し思考するのだと思う。
(ちなみに、身体の体験のうち言語に置き換えられない体験はきっとたくさんあるだろう。言語に置き換えられる体験と置き換えられない体験のどちらが多いのかは比較しにくい。ヘレン・ケラーがWATERを身体で体験するだけだった時点のWATER理解と、「WATER」という言語を得た後に得た分のWATER理解とで、どちらが重大かを比較するのと同じくらい難しい)
では、東京に住んでいる猫がいきなりサハリンに連れて来られたらどうだろう。猫もまた私と同じようにサハリンを散歩しサハリンについて身体の体験を積むだろう。しかし猫はおそらくサハリンというものを知らなかっただろうし、サハリンについて言語で考えることもしないだろう。
そもそも「サハリン」という言葉で私たちがイメージするようなまとまりを、猫は持っていなかっただろうし、サハリンをちょっと散歩したくらいでそうしたまとまりは生じないだろう。
猫には「サハリン」という概念がないということだ。(それどころか、そもそも猫が東京にどれほど長く住んでいたとしても、「東京」という概念もまた生じないだろう)
人は猫と違い、この世界の感触を身体の体験だけで構築するわけではないのだ。言語の体験(=知識・思考)によるところが相当大きい。サハリンに行ったことがない人はサハリンの体験はゼロであるわけだが、サハリンの知識があるおかげで、こうしてサハリンの話も理解できる。ほとんど誰も体験していない択捉島や国後島についても私たちは知識だけでかなり理解しかなり議論できる。
ここで話を一歩進める――
身体の体験と言語の知識は、どちらもニューロン(脳の神経細胞)のネットワークのなかに記憶される。たぶんそれは間違いない。得られた体験や知識のすべてが記憶されているのかどうかは、よくわからないが。
そして、私が部屋でただゴロ寝しながら、「サハリン? ああ知ってるよ」と言ってサハリンの体験や知識を引っ張り出してくるときに、脳のニューロンのネットワークがすべてを担っていることはもっと間違いない。
(ちょっと脱線するが、じゃあ猫はどうなんだろう? 「おまえ、サハリン知ってるか」と猫に聞いても猫は黙っているが、猫は猫なりにサハリンに連れてこられた体験をなんらか記憶してはいるだろう。そして部屋でゴロ寝しながらサハリン体験を回想することもあるだろう。それはいわば猫にとってのサハリン知識だ。そのとき「サハリン」という単語はなくても〈サハリン〉という概念みたいなものはなんらか形作られているのではないか。それは何となく言語に似ているような気もする)
脱線終わり――
さて人である私は、サハリン体験とサハリン知識とを、からみあわせ、つなぎかえ、くみあげ、最終的なサハリン理解を作り出していく。
サハリンにかぎらない。日本とは何か。オリンピックとは何か。原発とは何か。吉野家とは何か。消費税とは何か。民主党とは何か。これらの体験や知識もまた、毎日のように毎時間のように、からみあい、つなぎかわり、くみあげられる中で、最終的な理解が作り出されていく。
これらもまたニューロンのネットワークがすべてを担っている。しかも「理解」あるいは「思考」と呼ぶような働きであるかぎり、脳の働きの中でも言語の働きこそが相当大部分(あるいは全部分かもしれない)に介在していると、私は考えている。
人の体験にとっても人の知識にとっても、ものすごく関係の深い言語。
さてでは、近ごろ言語はどこにありますか?
大昔。たとえば恐竜などがのし歩いていた時代の地球には、言語はどこにも無かっただろう。やがて時が流れアフリカ大陸でヒトが誕生する。彼らはどんどん東に移動してくる。やがてサハリンや日本列島も形成される。サハリンでも日本列島でも人々は石器や土器を作ったようだ。その頃のどこかの時期に地球で初めの言語が現れた。
ではその初めての言語はどこにあったか?
人の頭の中、つまりニューロンのネットワークの中にあったと言うしかない。それは最初、歌のようなものとして口から出てきたのかもしれない。あるいは、図のようなものとして手から出てきたのかもしれない。しかしそれが一体どこから出てきたのかと問えば、人の頭の中から出てきたと答えるしかないのだ。
言語が人の頭の中だけにあった時期は長い。中東では5000年くらい前までそうだった。日本列島では1500年くらい前までそうだった。サハリンでは日本人やロシア人が来るまでずっとそうだった。(だからといってサハリン原住民より、中東の人や日本の人やロシアの人が賢いと言っているのではない。そもそも中東の人や日本の人やロシアの人が今、賢いなんてとても思えない)
ともあれ重要なのは、ずっと人間の頭の中だけにあった言語は、文字が出来たことで外部化されたということだ。そうして書物が作られた。
書物が君臨した時期もまた相当長かった。なにしろほんの20年くらい前、昭和の頃といってもいい、20世紀までといってもいい、とにかくその時期に言語はどこにあったかというと、人の頭の中にもたくさんあったが、なにしろ書物の文字としてたくさんあった。教典や教科書や辞書や新聞雑誌や小説のなかに大量にあった。会社の書類や日記や手紙のなかにも大量にあった。
そして現在。このことを私は10回くらい言ってきたのでもう端的に言う。
近ごろ言語はネットにある。ツイッターにある。ブログにある。グーグルにある。もちろん人の頭の中には相変わらずあるが、ネットにはもっとあるような気がする。実際、それなりにちゃんと言語を使ったなあと感じる(今のように)のは、実にほとんどネットがらみではないか?
さあでは、最初の問いに戻る。
私たちが何かを理解・思考するのは、身体的な体験と言語的な体験のからみあい、つなぎかえ、くみあげに拠るのだが、最終的にはすべて言語が介在しているとみなすことができる。
そのようにして私はサハリンを旅行し理解し、そのようにして世界を理解している。言語が世界像や世界観を作っている。このことをよくよく眺め、さらにちょっと大胆に眺めると、次のようなことになる。
それほど大変な仕事をしている言語が、近ごろは私の頭の中というよりネットの中にふんだんにある。言語による体験と知識のからみあい、つなぎかえ、くみあげは、私の頭の中以上にツイッターやブログやグーグルの中でこそ頻繁に起こっている。(とりわけ、少しでも返ってくるリプライやインタラクションは脳内ネットのリプライやインタラクションに似て重要だが、それにかぎっては、間違いなく、脳内ネットにおける出来事ではない。インターネットにおける出来事だ)
……というわけで、インターネットにつながずに数日過ごすというのは、私の言語の働きのある部分が機能しないことを意味する。これも大胆に言えば、脳のどこか大事なところがすっかりマヒしているようなものだ。
私は今サハリンを旅行しながらサハリンを体験しサハリンを思考している。しかし、そうした体験や思考をからみあわせ、つなぎかえ、くみあげる土台のインターネットが欠けているのだ。
人間はすごい、つまり身体も言語もすごい。が、ネットもまたすごい。というのが結論。
(7.30)
=写真は、東京からサハリンに連れてこられた猫ではない(たぶん)=
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◎このサハリン旅行記はこちらに全体をまとめています。→ http://d.hatena.ne.jp/tokyocat+travelog/20120724