東京永久観光

【2019 輪廻転生】

現実体験<言語体験


きのう京都で用事があり、ついでに清水寺を見てきた。
 
 

私が清水寺に行くのは、ひょっとして人生初か小学校の修学旅行以来? それでも清水寺をいやというほど知っているのは何故か。それは、清水寺という概念と単語をもつからこそだ。猫や犬にはそれはかなわぬことだろう。と、紅葉とも舞台とも関係ないことをずっと考えていた。

清水寺に行くという体験は非常に濃いものだとしても、清水寺という言葉を聞いたり言ったりする回数は実体験の回数より比較にならないほど多いことこそが、こと人間の意識や認知においては不可欠の役割を果たしている。そのことをもっと重視したほうがいい。

清水寺と誰かが言えば、まして自分が清水寺に行けば、原節子が出た『晩春』を間違いなく思い出すなんてのも、言葉と概念が明瞭な人間ならではのワザだ。きのう私が見た巨大な建築物や赤い木の葉と、『晩春』のフィルムやスクリーンとは、自然現象としては まったくつながりがないのだから。

清水寺に1回行っただけで清水寺のすべてを知った気がしたり、パリやシリアに行ったことがないのに知っているような顔ができたりするのも、ひとえに清水寺、パリ、シリアといった言葉や概念を使いまくるからだし、その言葉や概念が自然現象とは別個のきわめて複雑なネットワークをもつからこそだ。

たった1〜2回の清水寺参拝や数回の『晩春』鑑賞が、人生を貫くほど長く深い体験になること自体も、そうした言葉と概念のネットワークと結びついてこその奇跡なのだろう。

原節子さんは結婚しなかったようだが、映画製作においてすら文金高島田を着けたのはたぶん『晩春』1回だけだろう。それでも、原さんは「その程度で映画における嫁入りシーンの何たるかを知るはずがない」わけではないように、同じく「人生における嫁入りの何たるかを知らない」とは言えない。

そんなわけで、清水寺にちょっと行ってみたことが、『晩春』という映画と絡みつき、結婚ということとも絡みつき、いずれもが、かけがえのない痕跡をおそらく人生に残していく。

生きているというのは、さっき雨に打たれ今窓から青空を見ているこの出来事をふつう指すが、同じく、昨日清水寺へ行った出来事も、これまでに『晩春』で見てきた原節子を思い出すことも、指す。現在も過去も現実も映画も、人間にとってだけはマジに本質的な差をもたないように、思えてならない。

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◎似た主旨のことを以前サハリン旅行でも感じて書いた。
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20120811/p1