東京永久観光

【2019 輪廻転生】

津波も情報も瞬時にやってくる

今回の地震で揺さぶられたのは体だけでなく、
心もであり、そして頭もだ。


こんなことがあると、自分のこと、社会のこと
総ざらいするようにものを考える。


9.11。あのときもそうだった。
あれからもう10年かとしみじみ思う。


10年が経過し、
私の目の前まで刻々と送りこまれる情報の量は
圧倒的に増えた。
2001年にはツイッターミクシィ
ブログやはてなブックマークすらもなかったのだ。
(まるでちょんまげの時代ほど遠い)


ところがおかしなことに、
提示された情報を
しっかり受けとめようという態度のほうは
10年前に比べ、むしろ減じている感がある。


新聞はあまり読まなくなったし
テレビもずっとつけているが、
それだけですんだつもりになって
ややこしい説明は実はほとんど聞いていない。


ツイッターもひたすら流れるが、
これは地震の前も後も同じ光景、同じ生活。


情報マヒというようなものだろう。


要するに「言葉を丹念に聞く・読む」いうことを
ここ10年で私はあまりにもしなくなった。
(3月はずっと忙しかったので
 そのせいだったなら、まだよいのだが)


そもそも、自分の知らないややこしい出来事について
言葉をちゃんと読みたどっていくというのは
もともと大変な苦労が要るのだ。
トマス・ピンチョンという作家の小説『逆光』を
ようやくまた読み始め、そのことを痛感した。


読むとはこういう頭の使い方を指すのだ、と。


地震津波原発について
テレビの報道やツイッターのタイムラインを
このところずっとずっと眺めてはいたわけだが、
べつにこのように何かを「読んでいた」わけでは
ぜんぜんなかったのなあ、と。


昔、1989年のことだが、初めて海外を長く旅行した。
当時は日本を離れれば、もう
日本語のニュースに触れる機会はめったにない。
だから、帰国の飛行機で2か月ぶりくらいに
朝日新聞を読んだ時は、あまりに新鮮だった。
記事の1行1行が頭の中に正しくしみとおっていくのが
ありありとわかった。
「言葉を読む、意味を読むって
 こういうことだったんだ!」
今回ピンチョンの小説を久しぶりに読んだのと
同じことを感じたのだった。


さてしかし、ここで反対にまったく違うことを述べたい。


それは、
テレビが流れ続け、タイムラインが流れ続ける
そのただなかで、
なにが起こっていて、何が正しくて、何をしたらいいのか、
その都度さっとつかみとろうという場合には、
かつて帰国便で新聞をていねいに読んだ時や
今回『逆光』をていねいに読んでいる時とは
ひとつがらっと違った頭のはたらきが求められる、
ということだ。


それはもはや
ひとつひとつの言葉が形成していく
緻密な意味のネットワークを
正確に写し取るといった
「言葉の読み方」ではない。
そのような「頭のはたらき」ではない。


数学の計算や論理の判断は、
人間だけの知能であり、
他の動物はそんなことまったくできない。
そもそも脳が周囲の様子を把握する手順は
数学や論理とはまったく異なっている。
しかし動物は、
数学や論理によらない独自の脳のはたらきによって
数くらいはある程度わかる。
人間も数を動物と同じように把握している部分もある。
…といったことが
『数覚とは何か?』という本に書いてあった。
asin:4152091428


言葉を緻密に読むというのは
数学の計算や論理の判断に似ているのだろう。
しかし、ニュースの言葉やツイッターの言葉を
どんどん受けて流している瞬間には
言葉をまたべつの要領で「読んでいる」のではないか。


これが結論。
以下は個人的に話をふたたびUターンさせたもの――


3.11や9.11は私の頭にとっても大きな衝突と震動であり、
平時とはずいぶん違う実に様々な思考が走りだした。
人は、途方もない出来事に出会った時だけ
途方もない考えに接近できるのかもしれない。
(途方もない旅行も似たようなこと)


では、たとえばたかが1つの小説が、
それほどの、頭の中を総ざらいさせるほどの
衝突や震動たりうるのか?


答はイエス


『逆光』を読むことは、3.11や9.11にひけをとらない。
旧来の言葉の読み方、頭の使い方を徹底することによっても
世界の実相にはもちろん接近できるのだ。
それをここに再確認し
これからまだとても長い読書の動機付けに
代えさせていただきます。(読書再開おめでとう)


逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説)