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【2019 輪廻転生】

★『論理哲学論考』を読む/野矢茂樹

本の備蓄をしそこなったけれど、『『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹)を読んでいるので、当分だいじょうぶ。

 

(4月18日)

およそ考えられうることはすべて、明晰に考えられうる。(論理哲学論考 4.116) 

突然引用したのは、クール(かっこいい)からだが、それだけでもない。

ここ数年で徐々に強く思うようになったことだが、言語(文)というのは何かを否応なく表してしまう。つまり否応なく意味を伴ってしまう。しかも意味は否応なく明晰になってしまう(明晰でない部分が削ぎ落とされることで明晰な部分だけが残ることが必ずできるように思えるので)。

その点では、言語は、数学の式や証明と違わないようにすら思える。

とはいえ、もしそうだとしても、この世界そのものが明晰であるということにはならない。しかし、明晰でないということにもならない。この世界について言葉がどんな説明をしたとしても、あらゆる言葉が説明することは必ず明晰な説明にしかならない、明晰な説明にしかなれない、というだけのこと。

この本(野矢茂樹『『論理哲学論考』を読む』)を読むのは三度目くらいだが、改めて新鮮に深く感じ入るところは多い。その1つがそれだった。

 

ここで浮かぶ疑問は、明晰なのは言語だけなのか、そうだとしたらなぜ言語だけが明晰なのか。いろんな答えがあると思うが、1つは、おそらく、個人や社会が言語をそのように(明晰に使えるように)チューニングしマネジメントしてきたからではあるだろう。

 

「この世界そのものは明晰なのか」という問いに戻ると:ひょっとして次の答になるのだろうか。

<この世界についておよそ説明しうることはすべて、明晰に説明しうる>

ということは、つまり、この世界の説明しえぬ部分については沈黙せよ? どうだろう?

 

しかしいずれにしても(また元に戻って)、この世界の説明しうる部分については私たちの言語が説明できないことは1つもない! これが今日の結論にしておきたい。

…ただし、こうも言いたい。<この世界について言語で説明できない部分はないが、言語で説明しないということが私たちにはできる>

 

下手の考え、休むに似たり。それより同書に戻ろう。

 

今回の読書で、私としてはもっと驚くべきことをいくつか見つけている。(前にも見つけていたのに驚かなかったのだとしたら、どうかしている。前にも見つけていたのに忘れていたのだとしても、やっぱりどうかしている。どうかしている!)

 

その1つを軽く示すと:

フレーゲは、たとえば「犬」という概念を「xは犬である」という命題関数として捉えた。それは個体から真偽への関数とされる》(p.149)

これは周知の認識だろう。この1点においてフレーゲニュートンアインシュタインダーウィンに匹敵する。

ところが、ウィトゲンシュタインは、フレーゲのようには、考えなかったというのだ(そうだったのか!)今日まではっきり認識していなかった。いや、今日もはっきり認識できているわけではない。ただ、この違いは、言語と世界の位置づけにおいて、激的な変化をもたらすに違いない(きっと)

しかも、それと何らか共鳴する激変が、ラッセルのパラドクスをウィトゲンシュタインが「それってぜんぜんパラドクスじゃないっしょ」と論破したところでも、たぶん起こっている。それを今から言葉で説明しようとすれば明晰に説明できるはずだ。(が、今日はもう遅いので説明しない)

 

予告編みたいなツイートになってきたが、もう1つ、感じ入ったところを、さっと述べておこう。それは、私がウィトゲンシュタインについて何か読んだときには、いつも終着点になっていると思える点だ。

《論理は何かがこうであるといういかなる経験よりも前にある》

ここでふつう誰もがまず腰を抜かすだろう。しかし本当に腰を抜かすべきはその続きだ。

(しかし)《論理は「いかに」よりも前にあるが、「何が」よりも前ではない》(論理哲学論考 5.552より)

《ともあれ何かが存在する。それは認識よりも、論理よりも、あらゆるものに先立つ、始原なのである》(p.165 野矢茂樹)