140字じゃ言えないからといって、なにも言わないままだと、言いたいことはどんどんたまり、ますます140字じゃ言えなくなる。
140字で言える分だけそのつど言うようにしたほうがよいのか……
……などといちいち思い悩まず、すっきりさっぱりツイートすれば勝利は訪れる、ということ。便通が訪れるというか。
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でもやっぱりヘンだよな。数年前はほとんど個人の脳内をめぐっていただけの膨大なもやもやが、現在は膨大なテキストになってネット内をめぐっているのだから。
インターネットが、私たちの生活というか意識というかそういうものをどう変えたのか、という問いの答として、最適のキーワードは「顕在化」だと、私はずっと思っている。ツイッターもまたその最たるものになっているとおもう。
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「毎日他人のツイッターばかりみていると、そいつの脳内がおまえの脳内に置き換わってしまうぞ!」
しかしたとえば、宮沢章夫さんとか横尾忠則さんとかの脳内に置き換わるのだったら、それはちょっと楽しいものがあるけれど。
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脳において無数のニューロンがネットワークするというのは、いわば「互いのフォローをどんどん増やしたりどんどん減らしたりしている」というのに似ているのではないかと思う。
脳はどうしてそんなことができるのか。たぶん原理はほんの少ししかわかっていない。ただいずれにしても、そのフォローは、「私がいちいちクリックして行っている」というより、「脳が勝手に行っている」というほうが事実に近いのだろう。
私の脳におけるニューロンのフォローを私がプログラムしたりオペレーションしたりしているのではないように、私のツイッターもコンピュータが勝手にプログラムしたりオペレーションしたりして、常に最適なセッティングにしてくれるとよいのに。
しかしそのとき、その「ツイッターのフォローの最適なセッティング」というのは、本当に「私にとって最適なセッティング」と言えるのか?
それを「私」と呼ぶのははばかられる? しかし、脳の中で勝手にプログラムされ勝手にオペレーションされた結果として組み立てられていくネットワークの総体を「私」と呼んでいるのだから、まあ「自動プログラム自動オペレーション式ツイッター」のほうも「私」でいいのではないか。
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とはいえ。ツイッターを長々と読みながら「私」が作られていくように、小説を長々と読みながらでも「私」は作られていく。小説を長々と書くほうは、そのテキスト体験における「私」の形成ぶりはもっと途方もないはずだ。
そうした長々とした小説の読み書きという営為もまた、今なおこの世にはある。それはやっぱり今のところ最大に良いものの一つだと私は思う。(あんまり読んでないけど)
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フォローする相手をシャッフルしたり日替わりにしたりするのはどうだろう。iTweetというか。BGT(バックグラウンドタイムライン)というか。気分はがらっとかわるはず。土日用フェイバリットや定番のアルバムもあってよし。フォローをオールチェンジすれば引っ越しみたいなものか。
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インターネットがなかったころ、知っている人は少なかったけれど、ほかに知らない人がとても多くいることを常に意識していたようにおもう。しかし今は、知っている人(フォローしている人)がいくらでも増えるかわりに、知らない人(フォローしていない人)の存在は意識から消えているのではないか。
【ところで、こういうのはいつもその場でツイートしている。なにかがぱっと頭に浮かぶときは、これくらい明瞭で分量もある言葉がぱっと浮かぶ】