東京永久観光

【2019 輪廻転生】

世界にタグを付けよう


ブログも長くやっているとタグの重要さに気づかされる。エントリーの管理という役割を超え、自分が考えていること自体の整理統合をタグはクリック1回でさっとやってくれる。タグはインターネットとりわけブログによって見出された情報整理の絶妙な仕組みなのだ。

自分の関心や思考をカテゴリー化したい欲求や必要は誰にもある。ところがカテゴリー名としていかなる項目が最適かを知るのはなかなか難しい。カテゴリーというのは、ブログなら自分の書いた文章がしだいに増えて何らかの群れを成して初めて浮上してくるからだ。そうするとしかし、事後的に確定したカテゴリーを過去のエントリーにさかのぼって当てはめていかなければならない(まあそれが本来の編集作業というものだろうが)

タグはそれとは違い、そのつど思いついたキーワードをとりあえずタグとして付けておけばよい。すると、あらふしぎ、思いもよらない「まとまり」や「つながり」がいつのまにか出来ていた、ということになる。それがタグの神髄。インターネットが得意とする自律分散の情報集積を体現しているとも言える。

ただし、タグ自体は自動生成されるわけではない(今のところは)。どこかの時点で私が項目を決めてセットしておかなければ始まらない。その時には戦略的なトップダウンがどうしても介在する。

というわけで、私のブログでもトップダウンボトムアップの協調によってタグは徐々に整ってきた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/archive


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ところで、今日タグについて考えたのには、ちょっときっかけがあった。

◎蝶を曳く−文芸時評−「蝶を曳く」 http://d.hatena.ne.jp/hinonaname/

小説や批評に丁寧な言及をしているブログだ。たまたま見つけて朝から少し読み耽った。新しいもの(川上未映子東浩紀1Q84など)も古いもの(吉本隆明蓮實重彦柄谷行人など)も分け隔てなく読み込んでいるうえ、その古いことや新しいことそれ自体を価値基準にはしていないと思えるところに、共感した。

このブログが「川上未映子」「柄谷行人」「東浩紀」といった人名をタグにしていおり、それを追って読むことになったのだが、こうした人名のタグというのはけっこう有用かもと思ったのだ。


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しかしながら、人名はべつにタグにしておかなくても、そのつど検索すれば用が足りるのではないか、とも思った。ためしに私のブログで「柄谷行人」を検索してみると以下のようになる。

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/searchdiary?word=%ca%c1%c3%ab%b9%d4%bf%cd

やはりタグでなくてもOK? しかしこれは、人名というものが情報として独特の位置にあることを物語っているのだろう。

つまり、「柄谷行人」に関係の深いエントリーならば、「柄谷行人」という単語はまずまちがいなく記されている。反対に、「柄谷行人」と記されているのに「柄谷行人」にまったく関係ないエントリーであるということもない。

当たり前のようでそうではない。たとえば、国家ということにかかわる思いが展開された文章だからといって、必ずしも「国家」という単語が含まれているとは限らない。反対に、たとえば「社会」という単語が使われているからといって、必ずしも「社会」というカテゴリーとして期待できる文章とは限らない。

もうひとつ。作家や批評家の名前というのは、その人の思想や作品の内容というかなり複雑でしかも漠然とした領域のものごとを、きわめて簡潔な記号として瞬時に囲い込んでしまえるのだ。そうした記憶と想起のトリガーとして脳のなかに自動的にセットされるように感じられる。

だからこそ、先ほどの「柄谷行人」検索でも、難しげで妙に刺激に満ちたエントリーがずらずら出てきたわけだが、その印象を一言でまとめようとしたら、「国家」でも「社会」でも「文学」でも足りない。そうまさに「柄谷行人」というタグでくくるのにふさわしいエントリー群なのだ。つまり、そうした新しいカテゴリーが図らずも瞬時に形成されたということになる。


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さてさて、脳はいかなるボトムアップやトップダウで体験や思考にタグ付けをしているのだろう。そしてまた、ブログやインターネットは脳の情報整理術にじわじわ近づいているのだろうか?

なんのなんの、コンピュータはそう遠くない将来に人間の知能なんかはるかに超えてしまうよ。…という見解も最近は随所にみられる。やっぱりそうなのか?


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ところで、ドーキンスが示した「ミームmeme」だが、じゃあミームの基本単位って何だろうと時々考える。やっぱり本などは実質的なミームとして機能しているように見える。似たことだが、人物名でくくられる単位でもミームはよく複製され普及していることだろう。

ドーキンスミームを発想した時、まだインターネットの検索やタグというものの威力には想像が及んでいなかったはずだ。GoogleはてなブックマークTwitterなどは、ミームのふるまいにいかなる戦略変更を迫っているのだろう。そしてまた、私たちの脳のふるまいにも。