東京永久観光

【2019 輪廻転生】

観戦の法則を回復せよ


アメリカンフットボールの日本選手権「ライス・ボール」を、知り合いに誘われて見に行った。3日の東京ドーム。

アメフトのことを何も知らないのだが、Wikipediaで基本のルールを読んでおいたら、そこそこ楽しめた。

とはいえ、この世界にはスポーツというものがあること、そこには勝敗があること、そのうちアメフトは団体で行う球技の一つであること、そして私は観客として今ここに来たこと、などは最初から分かっている。もしそれすら欠いていれば異星人のように戸惑うしかない。ものごとがスムーズに理解できる背景には、そうしたメタデータ(要するに、これが何なのか)の把握がどっしりと横たわっている。

ところがここに、黒沢清の『カリスマ』という映画がある。年末にDVDを借りてみた。これぞこの世の営為のなかで「いったい何なのか」がまったく分からない数少ない一例と言っていいだろう。黒沢清が地球人であるにもかかわらずだ。


★カリスマ/黒沢清 監督
カリスマ [DVD]


そこに映っている物がそれぞれ何であるのかはわかる。出てくる人も、それが人間であることはもちろん、何をしているのか、何を話しているのかなどもわかる。

しかしそんなことは「へえ、すいぶん広々とした場所でやけに肩幅の広い連中が群れになってぶつかりあっているんですね」という程度にすぎない。「で、これっていったい何なのですか?」

ふつう映画を楽しむには、たとえばストーリーがわかることなどはとても大事だ。アメフトでいえばスコアボードに示される得点や攻守の交代を把握することに似ている。でもそれはアメフト観戦だとわかっているからだ。しかし、私の見ているこれが本当にアメフトなのか、あるいはスポーツなのかすら非常に疑わしい場合は、どうしたらいいだろう。

インターネットにある『カリスマ』の評をいくつか探して読んでみた。


偽日記がやはり参考になる。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20000314
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20000315


こちらは率直な感想を軸に黒沢清の各作品の実際を整理している。
http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/cat_211025-1.html
(読書と毒舌のすすめ/黒沢清・監督のホラー映画の感想)

この中に、黒沢清が立教大で蓮實重彦の授業を受けた時の驚きが引用されている。青土社黒沢清対談集』にある周防正行との対談という。以下孫引き。


《[黒沢] ええ、それは驚きましたね。蓮実さんが「この映画を見てきてください。『未知との遭遇』を、次週までに」と言うんです。次の週行きますと生徒たち一人一人に「何が見えましたか」って当てていくんですよ。で、授業の要領をわかっていない人はですね、「円盤の特撮が凄かった」なんて言うわけですね。するといきなり蓮実さんが「特撮というのはどこに映ってたんですか」「でもあの特撮はやっぱり凄かったですよ」「特撮か特撮でないかはどうしてわかるんですか。本当の円盤かもしれないじゃないですか」とか言って、突っ込んでいくわけですよ。「でもパンフレットに特撮って書いてありましたから」「それはパンフレットに書いてあったんでしょ。映画には映ってないはずですよね」とかですね。こういう授業なわけですよ。
 で、僕なんか大体要領がわかってくるとですね、「この映画、何が見えましたか」「ドアが十五回見えました」「はい、そうでしたね」とかね。ほとんどこういう問答が続くわけですよ。禅問答のような。そういうのはやっぱり強烈でしたね。映画をそのような角度で捉えることができるんだというね。
 単に面白い、つまらない。作者はこれを言いたかったのだと、そういう言い方も勿論できるんですけど、何が映っていたかっていう見方があったんだなっていう。あまりにも当たり前であり、あまりにも誰も言わなかったものですから驚きましたね》

《[周防] やっぱり同じことに驚いてたんだなあ。映っていることを見なさいということに。蓮実さんの言ってることは、まず映っていることを見なさいということに。蓮実さんの言っていることは、まず映っていないことをどうして見ようとするんだということですよね。そのことが僕には本当に新鮮でね。それまでの「映画芸術」なんかに書いてある映画批評って裏読みなんですよね。時代を読むとか、政治的な力学を読んでみたりとか。「どこに映ってるの? そんなこと」っていうことですよね。その中で蓮実さんはやっぱり違った。映画は映ってるものがすべてなんだというね》


蓮實重彦の映画評が我々に与えた核心の一つはやはり、「映画に映っていないものではなく、映画に映っているものを見なさい」というメッセージだったのだと、改めて思う。

この対談は『カリスマ』に関連したものではない。ただ次のようなつながりに思いが及んだ。

多くの映画を見ていて「何が映っているか」を気にしないのは、その映画がスムーズに楽しめているからだろう。しかし『カリスマ』のごとく、「これってどういうストーリーなのか」「この人はいったい何を望んでいるのか」「そもそも何が起こっているのか」と延々首をひねり続けるような映画の場合には、初めて、自ずと、「え〜と、原っぱに、樹が生えているなあ」とか、「あれ? ハンマーで、頭部を、殴りつけた!」と、まさに「そこに何が映っているのか」を確かめることから始めるしかなくなってくる。

『カリスマ』とはいかなる類の映画なのだろう。……いや、これは本当に映画なのか? そもそも映画とは何だっけ?


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(追記)

映画やスポーツを見るのにルールなんか知らなくていいと主張したいのではない。大まかなルールから細かいルールまで多く深く知っていればいるほど、見る楽しみも多く深くなる。いやむしろ、スポーツ観戦の前にそのルールをしばしば確認するのに比べ、映画を観覧する前にはそのルールをあまり確認したりしないことのほうが、問題ではないか。

「これはいったい何なのか」「スポーツとは何か」「映画とは何か」の答も、結局そうしたルールを理解する積み重ねの上に現れてくるのではないか。「そんな大げさな問いに答なんかないさ」と開き直りたいわけでは決してない。