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【2019 輪廻転生】

デジタルカメラはいかにしてモノリスたりうるのか


美崎薫デジタルカメラ2.0』(asin:4774130524)という本について、むしろ「デジタル2.0」いや「ニンゲン2.0」だと書いた。http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20070704#p1

ハッタリではない。デジカメ史をカタログ的に振り返った一冊に見えながら、じつは全く違う。真に未来的な問いが詰まっている。

ニンゲン2.0。それは、言語に支えられた思考しかなかった私たちに、もうひとつ別の思考が立ち現れる予感。…とそれくらい言ってもかまわない。とくに画像の検索をめぐる考察にそれが強くうかがえる。


画像の検索って何だろう?

私たちは富士山の写真が見たいときどうするだろう。Googleで「富士山」と画像検索するだろう。朝青龍がモンゴルに帰った様子が見たいときどうするだろう。「朝青龍、モンゴル、帰国」で検索するだろう。

そう、私たちは画像を探すのに言語を頼る。でもそれははたして画像の検索といえるのか、と同書は問う。写真共有サイトflickrも、無数のタグで写真の検索ができるが、そのタグもまた言語だ。画像に誰かがわざわざ付加しておいた言語を検索するわけだ。http://www.flickr.com/search/ 

このふたつ(GoogleとFrikr)はどちらも、キーワードを検索しているだけで、写真を検索しているのではない。そもそも写真自体を検索できるのかどうか、あるいは写真を検索したい条件とは何か、というのは検索に先立って問われなければならない根本的な問題だ

画像はそもそも検索するものなのか、という問いを立てることもできる。画像は「見る」ものであって、検索するものではないのではないか、という考え方である。そもそも画像をどう検索するのかは、まだわかっていないし、検索できるのかどうかについても、疑問がある。これは重要なポイントなので、強調しておきたい。画像を検索するかどうか、という根本的な疑問を抜きにして、画像を検索できるといっても、あまり意味がない

たしかに、画像を言語でなく画像で検索することを考えると、途方にくれてしまう。いったいどんな方法なのか。そんな技術を見たことがあるか。…そういえば、はてなの「Fotolife」は色を指定することで写真をかき集めてくる。あれは画期的なのかもしれない。ああいうところから可能性は開けてくるのか。http://f.hatena.ne.jp/fotocolor/

この世界の現象はもともと絶え間も切れ目もなく茫漠として漂っている。しかしそれを私たちは、いわば決められたノートに決められた手順でメモしながら整理する。ノートと手順の形式を与えてくれるのは言語だ。かねてから指摘されてきたとおり、私たちが眺めている世界の像は言語によって編み上げられている。

画像はいわば世界そのもの、言語は世界の再構成。そして言語は唯一の(少なくとも比類のない)認知媒介であることは間違いない。そうすると、言語が検索になじみ画像が検索になじまないのは当たり前なのかもしれない。言語と検索は同じことの裏表なのだとすら思われてくる。

しかしさらに考える。それなら、言語をもたない動物は世界をそのまま眺めていることになる。でもそんなことはないだろう。猫もまた目の前に生起する現象を、たとえば「サカナがアル」「ネコカンがアル」というふうに際立たせて眺めているにちがいない。それらを「ウマイモノがアル」とまとめてもいるだろう。しかもそれは「イヌがアル」や「バンドウマサコサンがアル」とはやや違った眺めであることも分かっているだろう。では、そうした整理を猫は言語なしにどうやって実現しているのか。もしかして、視覚像を視覚像のまま抽象化し分類し検索するような仕組みがそこにあるのではないか。


タグの大活躍

話は飛ぶが、以下の対談がたいそう面白かった。糸井重里がタグというものを重視しているのが印象的で。

http://www.1101.com/socialweb/2007-08-28.html(「ソーシャル・ウェブ」座談会)

検索について考えるなら、タグという方法はぜひとも注視すべきだろう。

タグはいつのまにか台頭している。自分がウェブに書いたエントリーを整理していく必要からも、タグという発想は必然的に浮上してきた気がする。エントリーの分類はツリーという方法では限界にぶつかるのだ。

インターネットの検索では、ツリーをたどる方法もあるが、このタグを引っ張るという方法が明らかに支配的であり本質的にみえる。そしてタグとして使われるのは言語だ。繰り返すが、画像の検索もタグは画像ではなく言語だ。

タグがうまくいってるのは、タグは文字であり、文字の検索が成熟しているためだ

だいたい我々の知識というものが、ツリーだけでなくタグとも組み合わさって出来ていると感じられる。実際の脳においても、神経回路がツリーおよびタグとして連結することで、知識や記憶は成立してくるのではあるまいか。

しかし見定めておくべきことがある。

たしかにインターネット検索ではツリーよりタグがもっぱら機能し、しかもタグは言語である。とはいえ、言語による私たちの世界記述や世界把握は、タグ的である以上にやっぱりまずはツリー的であるように自覚されることだ。そうすると、インターネット検索では、言語の本領であったツリー性が解体され、言語の断片にすぎないタグだけが過剰に使われているとも言える。(ついでながら、タグ的=データベース的、ツリー的=大物語的、かもしれない)

(追記9.7)あるいはここではいっそ、「ツリーでしかなかった言語を初めてタグとして用いたのがGoogle検索なのだ」と捉え直したほうがいい。

そんなこともあって、画像検索をめぐる問いは、やっぱり次のように進む。

画像の検索までわざわざ言語のタグに頼らず、もっと独自のタグを用いてもいいんじゃないか。そして、画像ならではのタグとは一体どういうものなのか。

しかしそれはまだはっきりしない。

写真にタグがついたときに、世界と記憶は変わるだろう。いまはまだ、世界が変わる前にいる



リンクという手がある!

言語の検索とはちがう画像ならではの検索とは、いったいどういうものなのか。この問いに、同書はきわめて面白い着眼点を示唆する。それはリンクだ。

フォークソノミーにしろ、タクソノミーにしろ、写真を命名して分類する点では大差がない。写真にとって重要なのは、命名が不要な分類法があるかどうかである。ファイル名やキーワードに頼らない分類/検索/整理をできるかどうかだ。
 言葉よりも先に写真と写真を結びつける。
 ハイパーリンク機能をもつ環境では実現可能である。
 リンクは名前がなくても可能であり、リンクしたもの同士がどういう関係を持つのかを考えるのは、リンクしたあとでもよい。言葉に先だって、リンクをすることは可能だ。
 タグは検索によってしか結びつかない。リンクはその場でふたつを結びつけるが、タグを使うと、リンクの構築のために、検索という別のアクションが必要なのだ

リンクによって画像の連結や制御をするなら、言語は必ずしも用いなくていいのかも、ということに気づかされる。そもそも写真にファイル名などつけなくていいという指摘もあって新鮮だ。むかしインターネットを始めたころ、「文字がなくて絵だけがひたすらリンクしていくようなサイトがあったらかっこいいのに」と考えたことを思い出した。

リンクとタグ。その対比や相補の関係について、また、写真データベースを構築するソフトのデザインについて、同書はどんどん言及していく。

自己組織化。組織化するのは人手/ひとの判断だが、組織化によって構造ができる。その構造は、タギングによってうまく生まれてくるとは限らない。正確なタグを打つには知識が必要である。単独のものだけを見てもタグは思いつかない。複数のものを比較してみて初めてタグをつけられる。
 ノードだけを見て思いつくタグと、リンクを見て思いつくタグは違う。おなじタグのついたジャンルのもの(ノード)だけを見ても、おそらくおなじタグしか出てこない。これがフォークソノミーのある種の限界。体系づけられたものがごく少ない。体系づけるためのエディタの機能も貧弱。AにAというタグをつけても、検索可能になるのはAと検索した場合だけ。それは検索できて当然で、それが検索の限界でもある。AにBとの関係(リンク)を踏まえて、Cというタグをつけたときに、はじめて見える構造がある。構造を知っていれば、次にDが出たときに、それとABとの関連も見える。世界のなかで組織化できる部分はごく少ない。でもそれは有機的で、光って見える。
 編集可能なハイパーリンクシステムであれば、検索結果にたいしてその場で新規にコメントをつけ、永久に編集し続けることさえ可能である。
 写真やオブジェクトに命名することが容易でないとすれば、写真やオブジェクトを名前に頼らずリンクする機能こそが、写真環境の本質的な発展をもたらすキーとなるだろう


ちなみに音楽の検索なら

ちなみに。iTunesなどの楽曲データも、考えてみれば言語によってみごとに管理されている。これも、楽曲に関する情報が言語としてインテリジェントに付加されているおかげだろう。(ただし、著者はiTunesのデータベースには不満でまったく使えないと述べている)

少し違う次元だが、シンセサイザーは曲をまるでワープロの文章のごとく記述できる。これは、音楽が音符に分節して表象できることや、メロディーがひと続きの流れであることによるのだろう。記号性やリニア性(直進性)という点で、音楽は絵画より文章に近い。

しかしながら最近、音楽が鼻歌で検索できると聞いて驚いてしまった! ここにこそ画像の分析や検索にも転用できる発想があるのではないか。

http://www.itmedia.co.jp/anchordesk/articles/0403/08/news034.html


デジカメをもった人類
ここまではまだ「デジタル2.0」という話。しかしそれは確実に「ニンゲン2.0」に通じていく。

デジタルカメラはあたらしい思考を可能にするだろう

誰もがデジタルカメラで写真データを膨大に蓄積し、それを画像特有の方法でブラウズしリンクし検索する。そんな生活が本当に実現したとき、人間は思考自体が変容してしまう。そんな予感。

世界を把握し世界を記述する私たちの知能は、今のところ言語が軸だ。そこに画像というまったく新しい軸が加わる可能性。さらには、知能の軸が言語から画像へと移行してしまう可能性すらあるだろう。

デジタルカメラの写真は、手を使って考えることを可能にした。世界のものごとを対象化し、その場で手にとることを可能にするからである。これは、考えを深めるときに、従来とは違った方法をもたらす可能性がある。
 従来、ものごとを深く考えるときには、具象から抽象に考えを進めるものであった。写真の具象があることは、考えを抽象に乖離させるではなく、具象のなかで考えを深めることを可能にするような気がするのである。
 頭のなかでものごとを考えるのは楽しいものである。頭のなかでは、すべてが可変的にでダイナミックで、ひとときも静止することがない。ダイナミックさは楽しみでもあるが、充分な想像力をもたない場合には、想像はひとつところにとどまって羽を広げることはなくなってしまう場合もある。ダイナミックさの根源を見極めようと思って観察しようとすると、ダイナミックさは失われ、目を凝らせば凝らすほど、なにが起きているのはわからなくなる。
 具象の世界では、考えは具象に束縛されるが、つぎつぎと具象を積み重ねれば、具象ならではの豊かなビビッドさを得ることができる。いわばデジタルカメラは、手を使って考えることを可能にする。これは梅棹忠夫の『知的生産の技術』で示された京大型カードにも匹敵する使い方かもしれない

私たちは言語を獲得することで抽象の世界を縦横無尽に操作できるようになった。それと同様、こんどは具象の世界を縦横無尽に操作できるようになるのか。それがどういう感触なのか、私たちはまだ知らない。将来デジカメ生活が革命的に増進したあかつきには、その新しい世界像を初めて体験することになるだろうか。

そう考えると、デジカメの破壊力は京大型カードの比ではない。かつて人類は二足歩行を始めたことで手が自由になった。その手はやがて道具を持ち、手と目の共同作業も上手になった。私たちの知能が飛躍したのはその結果なのだという説がある。画像の知能化・知能の具象化という変化は、それに匹敵する途方もないジャンプかもしれない。

かくしてデジタルカメラは私たちにとってモノリスとなるのだ。


そしてライフログ

デジカメごときで話が大げさだろうか。それに対しては2つだけ述べておきたい。

1つ。私たちの想像という能力や様式は、すでにたとえば写真や映画という装置の出現によって、以前とはまったく別様のものに変容してしまっているかもしれない。その前例をまず検討する必要があろう。これについてはまたいずれ。

もう1つ。デジカメの革命性を私たちはまだよく実感していないのだ。しかし同書を著した美崎薫さんは、デジタルカメラとその写真データを限りなく使い倒している人物だ。写真の記録と再生が日常を埋め尽くすほどの生活とは、そして具象という名の思考とは、実のところどういう感触なのか。著者はその実践に基づいた報告をしているのだということを、忘れないほうがいい。

具象である写真に拘泥することは、想像力を失わせることになるのだろうか。
 筆者がじっさいにやってみて感じるのは、逆である。想像力を鍛える訓練をしているような気がするのである。
 記憶が、過去に対する想像力だとしたら、想像力というのは、未来に対する記憶であって、実は記憶と想像力は対になるものだ。
 記憶というのは、現在(いま、ここ)に強く依拠した、ある時間軸に沿った想像力のことをいうのであって、それは想像力(未来への)や創造力と、密接な関係をもつ。
 見ることで想像力が鍛えられる。見るものの分量が増えれば想像力はもっと高まる。デジタルカメラのもたらしているのはそういう世界だ

じつは私は仕事で美崎さんの取材をさせてもらったことがある。「ライフログ」という概念をテーマにしたものだった。美崎さんはライフログの世界的な実践者なのだ。その折には「記憶はもはや懐かしいものではなくなってしまう」といった驚嘆すべき証言も聞いた。これについてはまだ詳しく書いたことがない。これもまた改めて。

参照:
http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/e/5b14b8a15dbc318d9a48454aa7e8573a
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061205/1165336653


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(追記9.7)
関連エントリー検索の原理、ブログの原理http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060807#p1


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■愚象こそ具象なり(9.13)
刮目!(牽強付会かもしれないが)
平民新聞「携帯写真の名誉回復に向けて」http://d.hatena.ne.jp/heimin/20070909/p1