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【2019 輪廻転生】

転がる言語に文法は生えない?


はじめての言語ゲーム橋爪大三郎

 はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)


ウィトゲンシュタインが後期にどう考えていたのか、ズバリ直感できた本。素晴らしい。さすが橋爪大三郎。(ただし、アマゾンのレビューで、けっこう本質的な問題点などが指摘されている。星3つと星2つを見よ)


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言語は、論理や文法に引っぱられるけれど、実際には生態(生活やコミュニケーションなど)のツールとして役に立てばよい。そういう用途として通じればいいのだ。言語は、もともと祖先は鳴き声や接触と同じような手段として使っていたが、それが進化しただけ、とも考えられることが、この見方を重要なものにする。

我々の認知や生活が複雑に精緻になっていくときに、おそらく言語も同時に複雑に精緻になっていった。どちらが原因か結果かは判別しがたいが、ともあれそうしていつしか、言語自体を我々は探究するようになり、するとそこには当然ルールが見出される。ルールなんて、ゲームに応じて好きなように見出せばよいのだが、そこに整合性があってとてもエレガントな文法というものが見出されたために、今度は、言語がその文法に縛られるようになったのではないだろうか。

人間の認知には他の動物にない高度な構造があることは間違いないが、それを「言語および脳自体の構造」として捉えたチョムスキーは、やっぱり間違っているのではないか。言語の文法などの構造は、言語や脳自体ではなく、もっとそれを超えたところで見出される何かなのだ。

一方、そうした文法にきっちり縛られる一方、言語は言語として、案外適当に、うまくやっている。まさに不定性をもって生活と密着しながら転がっていく。転がる言語に文法は生えない。


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ウィングの非常に広い本で、宗教や現代史も言語ゲームの考え方を当てはめて解こうとする。

著者はこの本の依頼を受けてから完成までに20年かかったという。その間に、東工大で4年生向けに言語ゲームを講義したという。いったい、専門は何なのだ、彼は?


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◎以下は同書のメモ――


クワス算のクリプキを、あんなものは成立しないというふうに、まさに生活的言語使用の実際から切り捨てる。

ルールを理解することとルールを記述することは違う。机なら机という言葉の意味がわかることと定義できることは違う。

《なぜ、いくつかの実例をやっているうちに、たし算を理解できるのか。それは、わからない。説明もできない。ただ、みんなそうやって理解する、としか言えない。
 ルールを理解することが、もうこれ以上さかのぼれない、もっとも根本的な出来事だ。――言語ゲームのアイディアは、この発見に基づいている》

ここはものすごく重要だと思った。


ウィトゲンシュタインは、数学・論理を基礎づけようとする自分の仕事に、世界の価値と意味を論証するという大きなテーマを重ねあわせた。自分の哲学が、世界を救うのだ》(論理哲学論考をめぐって)

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要素命題が存在しないとはどういうことか。それは『論考』の主張「世界と言語とは一対一に対応する」が成り立たなくなることである。言語は世界と対応するわけではないのだ。言語は世界と対応することでその正しい意味を保証される、わけではないのだ。

だったら…

《言語はなぜ、意味をもつのか。
 言語はなぜ、世界のなかの事物を指し示すことができるのか。
 それは、言語が、言語ゲームのなかで、ルールによって事物と結びつけられているからである。
 そのことは、どうやって保証されるか。
 そのことが、それ以上、保証されることはない。人びとがルールを理解し、ルールに従ってふるまっていること。強いていえば、それだけが保証である。》

言語はなぜ意味をもつのか。『論考』の答え:言語と世界とは一対一に対応するから。なぜ一対一に対応するのか。その対応は説明されない。ただ前提されるだけ。

言語はなぜ意味を持つのか。『探究』の答え:人々が言語ゲームをしているからと答える。言語と世界との対応は、言語ゲームのなかでうみ出されるのだ。ではなぜ、人びとは言語ゲームをすることができるのか。それは、説明の必要がない、出発点である。

「痛い」が、私の痛さのことを指すのは確かだとしても、それは「痛い」と言う言語ゲームの本質ではなく、それに付随することなのである。


数列は、数が規則(ルール)に従って並んでいる。では、規則はどこに書かれているか。規則は書かれていない。書くことができない。それは、有限後の事例を通じて「理解」されるしかない。強いて言うなら、有限後の事例(a1、a2、a3、a4、a5)とともに、「示されて」いる。

なぜ人間は数や言葉を理解できるのか。それは考え方が逆で、数や言葉を理解できるのが人間なのだ。人間がいなければ、人間が数列を理解しなければ、数列は存在しない。数列の規則(ルール)は、この世界を世界たらしめている究極の根拠である。


規則に従った人びとのふるまい(言語ゲーム)こそ、この世界の根底だということではないか。


《『論考』は、「かくあることのすべて」である世界を、その外側から、言語という支え棒によって、しっかり支えようと試みた。(ヴィトゲンシュタインが、そう考えたのは、さもないと世界が壊れてしまう、と感じたからだ。)
 『探究』は、世界を、そのように支えようとはしない。世界は、無理に支えようとしなくても、最初から秩序あるものである。なぜならそれは、言語ゲームとして、刻々みずからを再生産しているからだ。
 ヴィトゲンシュタインは、長い旅路の果てに、「かくあることのすべて」である世界は、かくあってよいのだ、という信頼に到達した。》


疑うという言語ゲームデカルト「われ思う、ゆえにわれ在り」。それに対しウィトゲンシュタイン「なにを懐疑するにせよ、懐疑するという言語ゲームを行っていることは決して疑えない」という原理を発見した

ゴドーを待ちながら」では、待っていると待ち人が実在し始める。もっと一般的に言おう。言語ゲームを実行していると、その言語ゲームの前提が実在し始める。