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【2019 輪廻転生】

理解の累積淘汰〜ドーキンス『盲目の時計職人』(asin:4152085576)


突然変異と自然淘汰、この2つの原理によって生物は進化する。我々はそれを教養として知っている。でもそれだけではなく、じつは直感としてもおおよそ分かっているのだと思う。だからこそ、突然変異と自然淘汰のしくみの詳細をひとつひとつ聞かされたとき、そのあまりの巧みさや強さにたしかにあっと驚くのだが、それにまして、進化はなるほど必然なんだと納得できるし、その必然の理屈はすでに分かっていた気にすらなる。(追記5.15:だから「直感」という用語はあまりよくない。「直ちに理屈がとおる感じ」というような意味だ)

リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人』を読んで、そんな感想を持った。この一冊こそ、ダーウィン主義つまりいわゆる唯一絶対の進化理論の教科書として『利己的な遺伝子』以上に役立つ、ということを確信したうえでだ。

突然変異と自然淘汰が直感として分かっているというのは、たとえば「学校っていうのは、教師と生徒という2つの原理もしくは要素によって進んでいくんです」と説明されたなら、その実際を我々は「もちろんそうですね」と正しく詳しくイメージできる、というようなことだ。

具体的には。ドーキンスは、たとえば眼という精密な機械を自然が偶然に作り上げるなんてありえない、あるいは進化途中の眼を持った生物なんて想像できるか、といった進化論への典型的な疑いをことごとく打ち砕いていく。そこではやはり「突然変異&自然淘汰」の原理だけが用いられるわけだが、加えて「小さな淘汰が累積される」「進化は数億年という地質学的時間を使える」「自然淘汰はランダムではない」などの非常に重要なサブ原理が掘り下げられる。そのとき「進化論は納得できる」という実感を持つ者であれば、これらサブ原理もまた「ああそれはそうだな、そうでなければならないよ」と直ちにうなづけるということだ。そしてさらに「進化論ってなんて深いんだ、なんて完璧なんだ。でもそれを私はきっと分かっていたんだよ。ただ進化論が分かるということが、これほどおそるべきことを意味していたとは、今ドーキンスに言われるまで、やっぱりぜんぜん自覚していなかったかなあ」。

とはいえ、新たに納得できた問題もまた少なくない。

たとえばラマルク主義について。すなわち親が自らの生活や努力で変化させた身体の特長が子供に受け継がれることによって進化は起こるという考え。もはや一顧だにされない説であると知ってはいるので、あえて大きく取り上げるのはちょっと不思議だった。ところがドーキンスは、それが生命現象として「ありえない」ことを明白に主張するなかで、非常に新鮮な論を展開するのだ。そこで出てくるのは、遺伝子は「建物の設計図」のようなものでは決してなく「料理のレシピ」のようなものではあること。おなじみのアナロジーだが、その真意が私は初めてはっきり分かった。その違いはしかも、前生説(精子や種子のなかに体のミニチュアが畳み込まれている)と後生説の違いに相当することも示される。

それとは別だが、グールドの断続平衡説木村資生の中立進化説については、ダーウィン主義と基本的には対立しないことが説得的に述べられている。

種淘汰という見方が、進化の本質をえぐるのにあまり雄弁でないことについても、核心がかなりつかめたと思った。要するに、生物の膨大な多様化の歴史も、結局すべて親から子へという一つ一つの個体のつながりが無数に連続してこそ成ったのであり、そうした断面をひとつひとつ見ていったならば、そこでは種という概念は流れ去ってしまう、といったことだ。

「進化は遺伝子として起こるとも、種として起こるとも、どちらの言い方も可能ではないか」といった疑問を、私は『利己的な遺伝子』についてのエントリーで書いたが、そこは理解が前進した。まだ中途半端な理解かもしれないが、そうした小さな前進が累積して淘汰に耐えてこそ、理解は生き延びると信じたい。中途半端な眼球が生物にとってその都度無益でなかったというのと同じくだ。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060916#p1

というわけで『盲目の時計職人』は、いわば、公理「突然変異と自然淘汰」から、重要な定理が導出され、それを使って進化をめぐる難問がみごとに証明されるのを、次々に見せてくれたということになろう。

ドーキンスは「なんでみんな進化論をこれほどまで理解しないんだ」という驚き、あきれ、憤りからこの本を書いたのだと思われる。「だったらオレが一から十まで徹底的に分からせてやるから、覚悟しろ」といった意気込みも伝わってくる。

それどころか、ドーキンスは、進化論を理解することは人間の存在理由を理解することだとまで考えている。

われわれ自身が存在しているのはなぜか? これはかつて投げかけられたあらゆる謎のうちで最大のものであった。しかし、それはもはや謎ではない。もうとかれてしまっているからだ。この本はそういう確信のもとに書かれている。ダーウィンとウォレスがその謎を解いた。まだしばらくの間、彼らの解答にいくつか脚註がつけ続けられるであろうとしてもである。私がこの本を書く気になったのは、次のような理由からだ。すなわち、このもっとも深遠な問題への華麗で美しい解答について、かくも多くの人たちが知らないらしいこと、さらに、信じられないことに、多くのばあいそもそもそこに問題があったことすらじつは知らないように思えることに、呆気にとられたからである!》(訳:中嶋康裕 遠藤彰 遠藤知二 疋田努)

冒頭いきなりこう述べられ、いささかオーバーに感じたが、同書を読み終えたとき、視界は変わっていた。存在論に対する科学からの、少なくとも生物学からの最終解答というなら、それはまさに進化論なのだ、と。

 *

利己的な遺伝子』のエントリーでは、カクレクマノミさんという方が現れてコメントをくれた。この方は進化論に関するネット上の議論にしばしば現れダーウィン主義を解説する。いささか呆れや憤りを伴っているところが、ドーキンスを彷彿させもする。ともあれ、そのカクレクマノミさんがせめてこの本くらい読めとどこかで書いていたのが、『盲目の時計職人』だった。それで読んだ次第。感謝します。
http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060916#p1

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話はそれるが、ドーキンス(階層的)還元主義に堂々と立脚している。

もしあなたが知的流行を追っている雑誌の読者であれば、「還元主義」という言葉は、それに反対する人たちによってだけ言及される、まるで罪悪のごときものの一つとなっていることに気づかれていると思う。中には、還元主義者と自称したりしよう物なら、赤ん坊を食べることを認める輩ででもあるかのように受けとめかねない集団もある。しかし、実際に赤ん坊を食べたりする人間がどこにもいないのと同じように、反対されるに値するような意味での還元主義者など存在しない。どこにもいない還元主義者――は、複雑な全体を最小の部分から直接的に説明しようとする、いやそれどころかもっと極端な妄想では、全体を部分の総和として説明しようとさえするのだ!

じつは私はこういう立場がなんとなく嫌いだった。それはやはり80年代のニューアカというかポストモダン思想というか、そういうものの影響だろう。ところがここらを読んでなにかすっきりしつつ、ひょっとして私は本来ガチガチの還元主義者だったのかと思ったり(いやそうではないと思ったり)。ともあれ、かつて科学へのポストモダン的批判が台頭し、今は逆にポストモダン的科学論への批判が台頭しているように見えるが、ドーキンスは自他ともに認める後者の代表格ということになるのだろう。

*微妙に関連(↓)
科学の素、科学論の素http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20040402#p1


 ■■(追記 6.16)


我々(私)は、英語がうまく喋れないように、科学もうまく喋れない。ネイティブじゃないからだ。科学という言語のhearingやspeakingは、一からトレーニングしなければいけないのかもしれない、まるで英会話のように。