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【2019 輪廻転生】

★ホモ・デウス/ユヴァル・ノア・ハラリ

 ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来


いくら先が読みたいからといって、まじにネットから離れたくなるほどの本なんて、近ごろまさかあるまいと思っているわけだが、『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ)だけはやはり例外だった。

前著『サピエンス全史』の最後に問いかけたシンギュラリティーに、『ホモ・デウス』は、真正面から対峙するようだ(現在まだ第3章)。人間の不死や遺伝子を超えた知能といったものを、むしろ緩慢に進む現実として、しかも、いわば凡庸な歴史として、まず描き出す。前著の説得力がよみがえる。

こうした未来が必然的であることの背景には、一言で言えば「神とはつまり人間である」という事実がある(それが事実であることの説得力にまず驚愕し頭を垂れるしかない)

いやまったく「人間が神」なんだと、ページをめくるごとに深く共感せざるをえない。そして人間は実質としても名目としても神であることがわかってくる。その名目としての「人間=神」に当たる最重要キーワードこそ、かの「人間至上主義」だ。

「人間至上主義」という価値観をまったく疑わないのが現代人といえるが、実はそれは時代的かつ類型的なイデオロギーにすぎない――前著『サピエンス全史』はズバリこういった主旨のことを述べていた。それが私には、絶対常識の地盤がぐらぐらと揺れる直下型地震だった。

直下型地震の記録:
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20170204/p1

《(…)ホモ・サピエンスとはいったい何者か、人間至上主義はどのようにして支配的な世界宗教になったのか、人間至上主義の夢を実現しようとすれば、なぜその崩壊を引き起こす可能性が高いかを詳しく調べてみる必要がある。それが本書の基本的構想だ》(『ホモ・デウス』上 p.88)

この「人間至上主義」は、言うなれば「人間だけには魂がある」ということだ。いや、言うなれば、ではない、著者がはっきりそう述べる。《では、その人間特有の輝きとは何なのか?》《伝統的な一神教なら、サピエンスだけが不滅の魂を持っていると答える》

もちろん《最新の科学的発見はみな、この一神教の神話をきっぱりと否定している》《ブタとは違ってサピエンスには魂があるという科学的根拠は皆無なのだ》。つまるところ《ダーウィンは私たちから魂を奪った。もしあなたが進化論を理解していたら、魂が存在しないことも理解できているはずだ》

ところが――ここが核心だと私は思うが――、引用した考えに《ぞっとするのは敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒だけではない》

《何一つ明確な宗教的教義は持っていないものの、人間の一人ひとりに、一生を通じて変わることもなければ、死さえ無傷で生き延びられもする、不滅の個人的本質が備わっていると信じている、多くの世俗的な人々にしても同じだ》(『ホモ・デウス』上 p.132)

この「多くの世俗的な人々」の1人が明らかに私なのだと、ここを読んだ昨晩、深くため息をつかざるをえなかった。

というのも…昨年の秋から今年の夏にかけ、個人的に最も考えたいこと、かつ実際に最も考えたことが、まさに「レプリカントに魂がないように人間にも魂なんてないけれど、ほんとにそれでいいのか? もしくは、それでも人間に魂があるように思ってしまう気持ちの正体はいったい何?」だったから。

◎ 昨年秋に考えたこと:
 http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20171118/p1

というわけで、『ホモ・デウス』第3章時点、核心の問いは、まさに私の核心の問いと一致すると思う。著者はどう答えるだろう。先を読まずにいられない。

(なお1つ補足:同書が「人間至上主義」と言うとき、人権というものの普遍性や個人というものの一貫性などここ300年で世界に行き渡った考えを基本的には指す。そしてそれは「絶対的な神から祝福された人間だけは不滅の魂を持つ」といったキリスト教的な世界像を受け継いでいるとみる)


 *


(9月21日)

さて『ホモ・デウス』上巻。「人間の魂とは実は何のことか」と問うのかと期待したら違ってた(まあ、そりゃそうだね)。本筋の問いは「サピエンスだけがなぜ圧倒的に地球を支配できたのか」だ。「神から魂をもらったわけでもないのに…」がその問いの踏み切り板として使われるだけ。

しかしその問いに答えるのに、著者はかなり遠回りをし、第3章「人間の輝き」では、まず人間の「意識」および「知能」を検証する。動物と さらには計算機と比較した丁寧な考察は、著者の知識と思考の信頼性を裏付けるものだと思った。ただし、この2つとも「人間の圧倒的な支配」の理由ではないと、著者は言う。

著者は、「圧倒的に地球を支配できた」理由を、ひとえに「人間だけが大規模かつ柔軟な協力ができたから」と結論づけ、さらにはそれを可能にした「人間だけが持つ共同主観的な物語」というものへと議論を着地させていく。すなわち『サピエンス全史』のテーマでもあった「虚構」ということになる。

第3章の骨子と思えるところを少し抜粋。

《人間はその後の二万年に、石を先端につけた槍でマンモスを狩る段階から、宇宙船で太陽系を探索する段階まで進んだが、それは進化のおかげで手先が器用になったり脳が大きくなったりしたからではない》

《もし人間が大勢で柔軟に協力することを学んでいなかったら、私たちの悪賢い脳や器用な手は依然として、ウランの原子核ではなく燧石を割っていただろう》

《私たちが地球という惑星を支配しているという事実は、不滅の魂や何か独特の意識ではなく、この具体的な能力で説明できる》

《大規模な人間の協力はすべて、究極的には想像上の秩序を信じる気持ちに基づいている。想像上の秩序とは、私たちの想像の中にのみ存在しているにもかかわらず、重力と同様、冒すべからざる現実であると私たちが信じている一群の規則だ》(*これが共同主観的なものということになる)

そして、この共同主観的なものこそが、古代から現代までの歴史をそのつど決定的に彩ってきたということになる。神も会社も貨幣も共同主観。十字軍もチャウシェスク政権もIS(イスラム国)も民主主義と人権の価値も。

そのうえで、著者は、サピエンスの未来を決めるのは、私たちの遺伝子や進化というファクターではなく、私たちの共同主観や虚構というファクターであると予測するのだ。「なるほどそうきたか」と思う。

北朝鮮と韓国があれほど異なるのは、ピョンヤンの人がソウルの人と違う遺伝子をもっているからでもなければ、北のほうが寒くて山が多いからでもない。北朝鮮が、非常に異なる虚構に支配されているからだ》

《もし自分たちの将来を知りたければ、ゲノムを解読したり、計算を行ったりするだけでは、とても十分とは言えない。私たちには、この世界に意味を与えている虚構を読み解くことも、絶対に必要なのだ》 ――そして第4章へ。

このハラリさんの見取り図を、卑近な例で探してみるなら―― 

遺伝的な理由で高血圧になった人が、薬というテクノロジーで血圧を下げるのはイヤだけど、ジョギングで血圧を下げるのは「人間の魂にふさわしい」といった、虚構の意味に縛られる、みたいな? みたいな?

健康というイデオロギーを捨てられないのは、どちらですか、みたいな?

ところで(話は変わるけど):ハラリさんはヴィーガンなのだった(Wikipediaによれば)。動物の意識や知能と人間の意識や知能との間に本質的な差を認めない見解や、狩猟採集から農耕社会への移行に対する絶望的な評価を、同書で知ると、それは大いにうなずける。

てなことを言っているうちに、私こそがつまり「魂というイデオロギー」をなかなか捨てられないんだね、ということに気がつく。

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という疑問の正体も、ひょっとして、「魂というイデオロギー」だったりしないか? ――大変なことに思い至る秋の長雨。

ここまで、本人以外には一貫性をもってたどれない感想文になってしまった。さくっと仕切り直そう。

サピエンスだけが地球を圧倒的に支配したことを、私は「すごすぎる!」とだけ思ってきたわけだが、ひょっとして『ホモ・デウス』の著者は「ひどすぎる!」とも受けとめているのか? 

…先を読もう。

長雨も上がったみたいなので、もう1つだけ、本人にとっては決定的に重要なことをメモしておく。進化という原理を、私はちょっと神の降臨のごとくに捉えたがるが、進化という原理は、「やまない雨はない」のごとく、絶対正しいが、あまりにもありきたりの原理でしかない。

言い換えれば、「人間は進化で出来たのだから人間は素晴らしい」という評価は、「人間は神が作ったのだから人間は素晴らしい」という評価と同じく、けっこう錯覚なのだ。進化という原理を発見したことは比類なく賞賛すべきだが、進化という原理そのものは賞賛するとかしないとかと無関係なのだ。


 *


(9月23日)

『ホモ・デウス』第4章は、共同主観と虚構の物語が現代のサピエンス社会をも大規模に覆っていることを例示する。しかも、21世紀は過去にないほど強力な虚構と全体主義的な宗教が生まれると、著者は予測する。

《そうした宗教はバイオテクノロジーとコンピューターアルゴリズムの助けを借り、私たちの生活を絶え間なく支配するだけでなく、私たちの体や脳や心を作ったり、天国も地獄も備わったヴァーチャル世界をそっくり創造したりすることもできるようになるだろう》(上巻 p.219)

落合陽一『デジタルネイチャー』の世界がオーバーラップしてきた。ならば、その世界はユートピアなのかディストピアなのか? 落合陽一もそう単純にユートピアだと信じているわけではないと思うし、ハラリはハラリでまだそう単純にディストピアだとは言い切っていない。

そして、共同主観や虚構の物語を、総体として「宗教」という名にまとめ、その宗教に科学はどんな位置にあるのかを、第5章「科学と宗教というおかしな夫婦」で分析する。

そしてハラリは、科学革命が始まったのは、教条主義的で不寛容で宗教的なことにかけては史上有数の近代前期ヨーロッパだった、という事実を指摘しつつ、《科学と宗教は集団的な組織としては、真理よりも秩序と力を優先する》と断じる。

さあでは、科学と宗教は21世紀には結託していったい何をしようとしているのか? ここで再び持ち出されるのが「人間至上主義」。ハラリは人間至上主義という教義が葬り去られる兆しを改めて指摘するのだ。前著『サピエンス全史』における直下型地震が再び…

http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20170204/p1

《二一世紀には人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだ。とはいえ、科学と人間至上主義を結びつける契約が崩れ去り、まったく異なる種類の取り決め、すなわち、科学と何らかのポスト人間至上主義の宗教との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある》(p.244)

とうとう『ホモ・デウス』の主題がはっきり姿を現したという感じ。私たちは私たちのバイブルともいえる「人間至上主義」を疑わなければならないときが来た。その先にはカオスが待つのか? あるいは、様変わりした科学と宗教が別の強烈な「○○至上主義」を用意するのか?

では下巻へ。

→ https://tokyocat.hatenadiary.jp/entries/2018/10/15 に続く