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【2019 輪廻転生】

ボールとは何か、言語とは何か


ドイツで満員の観衆に混じって異星人がこっそりワールドカップを見ていたら。…でなくても実はサッカーを知らずテレビでにわかに熱狂しているだけの地球人でもいいが。「あれ(オフサイド)をやるとなぜかゲームが止まるな」とか、「ゴールラインから同じようにボールが出てもゴールキックするときとコーナーキックするときがあるね」といったルールをやがて見つけ出すだろう。そしてそうしたルールがなぜ出来たのかを考えていくことで、サッカーという競技の原理や特性、それを行う人間の身体や行動の制約といったものが見えてくるだろう。「サッカーとは何か」を「言語とは何か」に置き換えれば、認知言語学というのが、こうしたアプローチに似ているように思う。

それにひきかえ言語哲学というのは、「ボールとは何か」みたいな議論をひたすらキリキリと続ける。「ボールには意味がある」「ボールの動きは何かを示している」「ではボールの意味とは何だ、何を示しているのだ」。さらには「このボールの意味が正しいか正しくないかは、そのボールがゴールに入るかどうかに依る」「ボールの動きは攻撃や守備の作戦を示す」といったぐあい。やがて「ボールとはそもそも何かを意味したり示したりするものではないのではないか」と疑いだす者も出てくる。そうして「ボールの意味というなら、むしろそのボールを選手がどう使いこなしているかに注目すべきなのだ」あるいは「ボールとは選手間のコミュニケーションである」「チームは自らの意図や主張をボールによって表明する」…等々…滔々。

先のタイ旅行中に『認知言語学』(大堀寿夫)と『言語哲学』(ライカン)を合わせて読んだことは、すでに述べた。『認知言語学』の感想はタイにいる間に書いた(→http://d.hatena.ne.jp/tokyocat/20060510)。

言語哲学』のほうも、せっかく読んだのに長いあいだ放っておいてまたもやどんどん忘れてしまいそうなので、「そうか!」と思ったことを書き留めておきたい。というわけで、今書いている。

繰り返すが、認知言語学は、言語には「人間がどのようなものであるか=世界をどう眺めているか、身体や知覚はどうなっているか」が反映されると考える。その観点から言語の実態や実際を解明しようとする。それに倣っていうなら、言語哲学は「言語自体がどのようなものであるか(どのようなものでしかありえないか)」を見ていく学問だろう。

言語哲学が決定的に面白いのは、我々がふだん使っている言語がおよそ言語であるかぎり必ずまとってしまう構造や制約を見通し抽出してくる、と思えるところだ。それは論理や数学の汎用性や絶対性に近づいていく印象がある。

だから、もしもカブト虫や金魚が独自に言語をもつことがあったとしても、その言語もまた、言語哲学が抽出する人間の言語の構造と同じ構造に、どうしてもハマるのではないか。地球外に知的生命体が存在して言語を持ったとしても、やはり同じ制約に縛られるのではないか。私は時々そう考える。一方、認知言語学的には、人間固有の認知形式から人間固有の言語法則が生じているといった関心なので、カブト虫がどうとか地球外生命がどうとかの議論はない。(いやもちろん、言語哲学でも実際そんな議論はしないのだろうが)

ところが言語哲学の本は、いつもどこかで興味が飽和してくる。私の頭脳の不足がまずある。いくら頑張っても理解に到達する分量がだんだん希薄になって読むのが面倒になる。それに加え、議論がやっぱり現実の言語生活や現象とはかけ離れた地点にいく。数学の例題をむやみに難しくして解かされているような気がしてくる。こうした分野の理論は「分かる」か「分からない」しかないと思われる。だから「だいたい分かった」と言いたいときは、その理解はきっと無駄なのだという諦観もある。

言語哲学とは理屈っぽい子供がそのまま大人になったようなもの、といった趣旨のことを保坂和志がどこかに書いていたが、たしかにその形容が当たっている。言語哲学者は「言語の意味って何だ」と問いつめる。「いやそれはその言葉が示すもののことだろう」「辞書に載ってます」とか普通の人が答えると、「じゃあペガサスは何を示している?」「よろしくお願いします、は何を意味している?」「日本の大統領はハゲ頭だ、という言明は正しいか正しくないか」などと迫る。(といっても、この入口レベルの理屈自体に出会ったとき、私は非常に新鮮に感じたし、今なお面白くて仕方ないのだが)

ただ、言語哲学もなかなか多彩で、言語が実際にどう使われているかに重点のある定式化もある。今回の『言語哲学』でも、グライスやオースティンの指摘から始まる考察はどこまでも面白かった。こちらの領域から得られることのほうが、「確定記述」「命題説」「検証説」といった領域に比べて豊饒なように私には思えた。

《H.P.グライスによれば、言語表現が意味をもつのは、まさにそれが何かを表現するからである――ただし、命題を「表現」するからではなく、その表現を用いる人の具体的な考えや意図をより日常的ないみで表現するからである》
《グライスは、話し手も意味を、文そのものがもつ標準的な意味から区別する》
(p143)
基礎的な例をいうなら、「この部屋は暑いね」という言語表現がじつは「窓を開けてくれ」という意図を担っている、といったようなこと。

オースティンは「行為遂行的」な発話ということを指摘したことで有名。「ここに謝罪します」という発話は、なにかを記述しているというより、その発話自体によって何かが行われている、といったようなこと。

言語哲学の解説本としては、飯田隆が書き続けた『言語哲学大全』という4冊にわたる入門書(?)がある。私はだいぶ前にたしか2巻までふうふう言いながら読んだ。なんというかホントに異様な議論に私は今延々つきあっているんだろうなあという思いを抱えつつ。それに比べればライカンの『言語哲学』はコンパクトでトンネルの先が常に見える。しかし「分かった」気がしない部分は、『言語哲学大全』の胸が焼けるほど詳しい説明を読んだほうがいいのかもしれない。それで分かるかどうかの保証はないが。

さて、こうした現代言語哲学の始祖に当たる存在にフレーゲラッセルそしてウィトゲンシュタインがいる。『言語哲学』は、ウィトゲンシュタイン前期の『論理哲学論考』には触れないが、後期『哲学探究』を「言語の使用説」の始まりとして紹介する。とはいえ、言語哲学のその後の進展は著しく、ウィトゲンシュタインはもはやクラシックの位置だとも察せられてくる。ただ面白いのは、ウィトゲンシュタインにだけは、このライカンも含めて言語哲学の解説本が、いつだって最大級の敬意と好意を惜しまないように見えることだ。ウィトゲンシュタインの主張が今ではいくらか退けられているとしても、あるいはウィトゲンシュタインの主張がそもそも曖昧だったりしても、とにかくウィトゲンシュタインを責めるようなことは誰ひとりとしてしないのだ。

といってもそれは贔屓というわけではなく、ウィトゲンシュタインが書き残したこと自体がもつ射程の果てしなさに由来するのだろう。それと関連するが、ライカン本が、ウィトゲンシュタイン解釈について注意を促したある1点が、とても重要だと思ったので、ここに引用しておく。

ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の第43節は、誤って引用されることで有名である。この節は、「われわれが「意味」という語を用いる(すべてではないにしろ)ほとんどの場合では、次のような定義が可能である。すなわち、語の意味とは言語におけるその使用のことである」というものである。ウィトゲンシュタインは、「すべてではないにしろ」という留保を非常に深刻にとらえていた。彼は、「意味とは使用のことである」と考えていたわけではない。じっさい、ウィトゲンシュタインは、普遍的な一般化を嫌悪していた。彼は、普遍的な一般化を追求することは哲学の深刻な欠点であると考えていた。彼の主張によれば、現実の世界は、それよりもはるかに複雑なものである。》(p140)

イカン『言語哲学』についてはこれくらいで。

 
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言語についてどんなことが考えられているのかをなるべく総覧したいと思い、いささか唐突だが、まず認知言語学言語哲学の入門書を合わせて読んでみた次第。

言語というだだっぴろい領域を捉えようと思うなら、両書ではあまり扱われていなかった考察も把握しておいたほうがいいだろう。今思い当たるのはチョムスキーソシュール

チョムスキーの普遍文法の考えには二つの側面があるようだ。人間の言語は多様にみえるが基本の骨組みはじつはみなこのように同一だという実証。そして、言語の文法が同一であるのは脳に言語だけを司る固有の領域があるからに違いないという大胆な推測。

認知言語学チョムスキーの普遍文法のむしろ対抗軸として出現したという経緯があるようで、『認知言語学』も敵の理論をそう詳しくは説明していない。

認知言語学では、言語は記憶とか知覚とか脳のさまざまな働きのミックスジュースとして捉えるようだ。それに対してチョムスキーは、脳に言語といういわば単一の樹木があってその果実だけを絞るだけで言語ジュースが出来上がる、と捉えたのだと思う。

イカン『言語哲学』は、チョムスキーの考えのうち脳理論ではなく言語を眺めて基本文法を抽出していった方法や成果が、言語哲学の重要な展開のひとつに組み込まれていると述べている。ただその詳しい展開は同書では省かれている。

ソシュール記号論は、80年代にいわゆるポスト構造主義などフランス系の現代思想を語るのに欠かせない存在で、その言語の見方は影響甚大だったなあと懐かしく思う。でもソシュールは、両書をみるかぎり、言語哲学とも認知言語学とも無縁のようだ。それだけにむしろ、言語の全体像を知るためにソシュールのことは忘れないほうがいいのではないかと思う。

もう一つ。言語について総合的に知ろうというなら、進化の観点からの言語の考察がまた大きな貢献をしてくれるにちがいない。要するに、チンパンジーやサルの能力の何がどう変化して人間の言語が誕生したのかといった問題設定。個人的にも非常に興味がそそられる。次に読むならこの分野だ。以前紹介した『霊長類のこころ』も言語の起源について詳しい実証と考察を紹介していた。ライカンという人のことは実はこの本の引用から知ったのだった。


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相変わらずとりとめないが、この辺で。


大堀寿夫『認知言語学ASIN:4130820087
イカン『言語哲学』(訳=荒磯敏文、川口由起子、鈴木生郎、峯島宏次) ASIN:4326101598
飯田隆言語哲学大全』 ASIN:4326152001(第1巻)


ところで最近ストレスフルで眠れない夜に、飯田隆ウィトゲンシュタイン』(講談社 現代思想冒険者たち)を読み返した。バランスがとれて手軽に読めていい本だと思った。


飯田隆ウィトゲンシュタインASIN:4062743582