東京永久観光

【2019 輪廻転生】

ウィトゲンシュタイン再読

 

旅行をすればするほど行きたいところが増えるかというと、人によるだろうが、私はそうでもない気がする。ところが本は、読めば読むほど読みたい本が増えていくのは明らかで、それゆえ、十分な読書というのは短い生涯においてきわめて難しいプロジェクトになる。

しかし読書が幸いなのは、たいていの本はアクセスが容易であることだ。旅行では、南極に行くとかエベレストに登るとかはいくら望んでもまず無理だ。インドなどでも暑さや客引きやウシや薀蓄を語る旅人に嫌気がさして帰りたくなる。そもそも暇も金もない。だいたい成田まで行くのが大ごとだ。

つまり、世界で一番遠いところや高いところに行きたいと思ってもなかなか難しいということ。しかし、世界で一番すばらしいと言われている本は、紀伊国屋かアマゾンに注文すれば、きっと手に入る。ちょっと歩いて図書館まで行ってもよい。

そんなわけで、10年くらい前に私は決意した。それがエベレストのごとく最高峰の本だと言うのなら、少なくとも一度は手にはしようと。

もちろん旅行も、行きたいところはいくつもあり、いつか行こう、いつか行こうと言っているうちに、死んでしまわないよう、できるだけ行かなくてはならない。ただ、旅先はたとえば国の単位でいえば200くらいであり、もちろん多いのだが、しかし本が際限なく多そうなのに比べれば、なんのその。

そんななか、実際「この本マジすばらしい。南極かエベレスト並み」と叫びたい一冊に出会うことはある。今月そう思いながら改めて読んでいるのはウィトゲンシュタイン関連の本。野矢茂樹ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む』そして飯田隆ウィトゲンシュタイン 言語の限界』。

野矢先生の本は、付箋が草のように生い茂った状態で10年もそのままだったが、再読したら脳髄にしみわたる感触がある。ええっそうだったのか!と気づくことも多々(てことは、10年前はまさかそれを知らずに?)。人間は年もとるが進歩もするの哉。武者小路実篤のような気分だ。

飯田先生の本も再読だが、ウィトゲンシュタインという人物とその哲学をなでるようにたどっていく。野矢先生がぐいぐい持論に寄せて読み解いていくのとは対照的におもえて、興味深い。しかしどちらも本当にありがたい本だ。

「いま私は次のように言いたくなる。世界の存在という奇跡の、言語における正しい表現とは、言語のなかの命題のどれでもなく、言語の存在そのものである」 ――私がツイートしたようにみせて、これはウィトゲンシュタイン先生の「倫理学講話」にあるという(飯田先生の本より)。ありがたい。

ウィトゲンシュタインという人がいて、たいへんなことをとことん考え本に残し、それを飯田隆という人や野矢茂樹という人が読み、またひたすら考え、私が読める日本語の本にしてくれたおかげで、今ただ寝転がりながらひたすら読めばいいのは、何ごとにも代えがたくありがたい。

ここでちょっと意味のあることも言っておこう―― 

じつは先日『オウム真理教の精神史』(大田俊寛)を読んだせいで増えてしまった読みたい本の1つ、林郁夫『オウムと私』も今同時に読んでいるのだが、ウィトゲンシュタインさんと林さんには共通点がある。

私が捉えたところでは、2人とも、世界があることや自分が生きていることそのものが巨大な謎であるという思いに到り、そしてその巨大な謎を、巨大な問いとして追求し続けた。では2人はどこが違ったのか?

一人は宗教に答えを探り一人は哲学に答えを探った、という違いはあるが、それはもはやポイントではない。

私はこう思った。林郁夫さんは自らの巨大な問いに対し、同じく巨大に答えすぎた。しかしウィトゲンシュタインはそうではなかった。

論理哲学論考』は巨大な問いに対する巨大な答えのようにみえて、まったくそうではない。最小限の答えだけを絞り込んで絞り込んでそこに置いた。そんなふうに言えると私は思う。

おそらく哲学とは、とりわけ分析哲学というようなものは、いかなる問いであれ、ひたすら厳密にしかそれを問わず、ひたすら厳密にしかそれに答えない。どんなに巨大な問いから発したとしても、漠然としたまま神秘のままにはしておかない。明瞭に区切られた問いと答えしか扱わない(ように思える)

とはいうものの。人はみな、不透明なままに迷い悩み、漠然とした問いを大きく抱えこむ。そこにもし巨大で簡明で全能の解答が示されたら…。そこに巨大な救済を感じてしまう人は、けっして少なくないだろう。

ともあれ、ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』が、「なんだ、そうか、わかった」と言うときは、どうしても外れなかった知恵の輪があっけなく外れたときのような感触なのだろう。

ABC予想の証明は、私の知能や発想や努力では、一生かけてもできないし百回生まれ変わってもできないだろう。そして、ABC予想を証明する人生は、エベレストに登る人生に増して意義深いと思う。ただ…

ABC予想は純粋な数学であり純粋なパズルだとも思う。少なくとも私にとって「ABC予想はほんとに証明できるのか? 」そして今や「ABC法則はなぜ存在するんだ?」 という問いや焦りが、人生そのものに関わってはいない(正しくは、人生そのものに関わるかどうかを私はまったく理解していない)

一方、『論理哲学論考』が投げかけている「この世はどう成り立っているんだろう」「いやそもそも、なんで私が存在するんだろう」といった問いは、パズルや頭の体操ではなく、まさに人生に関わる問いだと感じられる。ウィトゲンシュタインはそう感じていたと思うし、私もやっぱりそのように感じる。

それが謎のままだと世界や人生自体が根本的に謎のままだ。さらに『論考』は問うたとされる。「言語には何ができて何ができないのか」「論理はあらゆるものを超えているのではないか」、しかもその流れでとうとう「生きるとは何だ」「死とは何だ」。これらはパズルだろうか?

…いや実際、パズルかもしれないのだが…… 数学のすべてがパズルかもしれないように、哲学のすべてもパズルかもしれないのだが……

ただ、「根本的で本質的な謎」というものを思い描くとき、『論考』が挑んでいるらしき「世界があるという謎」や「私がいるという謎」がまさにそれだと、私はやっぱり感じる。それは「神はいなさそうだけどかまわないのか」「死んだら終りっぽいけどしかたないのか」という焦りにも近い。


論理哲学論考ウィトゲンシュタイン
 ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む/野矢茂樹
 『論理哲学論考』を読む


ウィトゲンシュタイン 言語の限界/飯田隆
 ウィトゲンシュタイン―言語の限界 (現代思想の冒険者たち)